浦安聖約キリスト教会

光は闇の中に輝いている

2001年12月

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

新約聖書 ヨハネの福音書1章4~5節

暗いニュースの多い21世紀最初の年も残りわずかとなりました。続く年が明るくなる兆しは見えません。むしろ現状は逆の方を向いているように見えます。街を飾るクリスマスの華やかなイルミネーションや浮き立つようなクリスマスソングの軽快な響きに、かえって中身のない空しさを感じてしらけてしまう人も多いことでしょう。

最初のクリスマス、キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになったその日、もちろん華やかなイルミネーションも軽快なクリスマスソングもありませんでした。ただ何人かの貧しい羊飼いたちがやって来て、神のみつげの通りだったことを喜んで帰って行っただけでした。それからわずか数十年後、キリストを救い主と信じる多くの人々が心からの喜びをもってキリストの降誕を祝う人たちの群に加えられていました。

「今月のことば」のメッセージはキリストの降誕によって現実のものとなりました。このことばは次の三つのことを語っています。
第一に、この世には「やみ」すなわち悪(の勢力)が存在するということ。第二に「光」すなわち義なる方がおられるということ。そして第三に、その義なる方は悪(の勢力)に打ち勝つ方だということです。

私たちは様々な悪と不法に悩み苦しみます。世界や国家のことを語るまでもなく、ごく身近にも、それこそ自分自身のうちにさえ悪の力は働くのです。しかし、確かな希望があります。この世界に来られた神の子キリストが、今もやみの中に輝く光として、信じる者の心と生活の中に来て下さり、やみに打ち勝たせて下さるからです。

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見分けてください

2001年11月

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、
隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

新約聖書 エペソ人への手紙 2章14~15節

「だから宗教は怖い」という声を聞きます。あのオウム真理教のサリン事件は、無差別大量殺人を敢えて善とする宗教的熱心の恐ろしさを私たちに見せつけました。

私たちは今、同じような熱心をイスラム原理主義のテロ集団の中に見ています。彼らは「聖戦」と称し、多くの人命と生活を破壊することによって天国に迎え入れられると信じ込んでいるのです。「だから宗教は怖い」と言われるゆえんでしょう。

他方、そのような「悪」に怒り、「正義のための戦い」に奮い立つ人たちもいます。どこからか「十字軍だ!」という声も聞こえて来ます。しかし、その「正義の戦い」は、高性能爆弾による一般市民の大量殺戮と何十万もの難民いう悲惨を生み出しているのです。「正義は必ず勝つ」という、もう一つの宗教的熱心にも警戒しなければなりません。

実のところ、私たちは「正義」を主張できるほど正しくはないからです。私たちはみな過ちを犯し、自分を卑しめ、人を傷つけて来たのではないでしょうか。

キリストはそのような私たちの罪や過ちを一身に負って十字架にかかり、神の赦しを下さいました。私たちは十字架の下で、神に赦された者同志として赦し合い、受け入れ合うのです。どうぞ、たらいの水と一緒に赤ん坊まで捨てないで下さい。真の宗教は、悪を善とする盲目や自分こそ正義だとする独善から私たちを救ってくれます。

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復讐するな

2001年10月

自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。

新約聖書 ローマ人への手紙 12章19節

米国で起きた同時多発テロ事件の惨状をテレビの映像で目の当たりにした人たちは、おそらく一様に「悪」に対する激しい憤りを禁じえなかったのではないでしょうか。数千もの一般人のいのちが、穏やかな日常生活の只中で、何の前触れもなく、しかも極めて卑劣な手段によって奪われたことに憤りを感じない人はいないと思います。特に米国民の憤りはテロ組織に対する怒りや憎しみ、激しい復讐の思いとなっています。

しかし「今月のことば」にありますように、聖書は復讐を押し留めています。復讐しようとする思いは洪水のように圧倒的で根強く、治めることは至難です。それでもなお復讐は避けなければなりません。なぜでしょうか。

一つは、復讐は新たな復讐を生み、憎しみの連鎖をもう一つ増やすことになるからです。もしかすると今回のテロ自体、その連鎖の一部なのかも知れません。もちろん、だからと言ってこのような凶行が許されて良いはずはありませんが。

復讐すべきでないもう一つの理由は、復讐は結局、別の悪を生むことになるからです。復讐する側は悪に対する怒りをもって「正義の剣」を振りかざすのですが、実際のところ、もう一つの悪を行う結果になるのです。

第三の理由は、復讐を追い求めることは、人にある種の生きがいを与えるにしても、決して幸福はもたらさないからです。溜飲を下げるような一時の快感は味わえても、その後に空しさが続きます。自分を高めるよりはむしろ卑しめる結果になります。
 
復讐は神の怒りに任せて、私たちはむしろ復讐の連鎖を断ち切る努力をしましょう。

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見えざる手

2001年09月

高ぶりは破滅に先立ち、
心の高慢は倒れに先立つ。

旧約聖書 箴言 6章18節

事がうまく行っている時は注意しなければなりません。なぜならそのような時、私たちは心が高ぶりやすく、しかもそのことに気づかないでいることが多いからです。「今月のことば」は、高ぶりの後には破滅が足早にやって来ることを告げています。

「米国が「双子の赤字」にうめいていたとき、好景気に沸く日本の政治的リーダーの一人が米国経済の構造上の問題に触れ、労働者の労働意欲の低さを指摘するのを聞いた時、私は思わず日本の将来を案じてしまいました。その後、日本の景気は急速に下降し、反対に米国は未曾有の好景気を迎えました。しかし、今はまた米国経済も急速に冷え、お祭り騒ぎは過ぎ去りました。

なぜ、高ぶりは破滅を招くのでしょうか。油断した結果なのでしょうか。そう言える場合もあるでしょう。しかし「今月のことば」の背後には、すべてのことを知っておられ、高ぶる者を退け、へりくだる者を高くなさる神の御手があるのです。旧約聖書のイザヤ書で神は、「わたしは高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」(57章15節)「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」と語っておられます。

また、ペテロは「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が丁度良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロの手紙第一5章6節)と勧めています。

もし今、高ぶりがあなたの心を支配しているならば、あなたは危険な領域に踏み入っているのです。神の前にへりくだることをお勧めします。

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栄枯盛衰の中でも変わらぬ輝き

2001年08月

人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。

新約聖書 ペテロの手紙第一 1章24~25節

緑したたる5月の日本を発って、聖地イスラエルを訪ねた時のこと。キリスト生誕の地ベツレヘムの町を遠望する野に立って「えっ、どうして?」と驚かされることがありました。そこには青草はなく、まるで晩秋の野のように枯れ草が覆い、ドライフラワーのようにかさかさに乾いた、日本のよりふた周りも大きなアザミが哀れな姿をさらしていました。

後でわかったことは、聖地の緑の季節は2月から3月で、5月には熱風が吹き、緑の草はたちまちに枯れ果ててしまうのだということ。熱風のすごさを思うとともに、聖書のことばが一層リアルに印象深く心に響いて来ました。

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。」人のおごりも高ぶりも、時が移り世が変わるとき、たちまちに色あせて輝きを失い、あのベツレヘムの野に立ち枯れる大アザミのようになるのです。  

「しかし、主のことばはとこしえに変わることがない。」神のことばである聖書には、何千年経っても変わらない人の愚かさと罪深さ、そして、それにもかかわらず、なお忍耐をもって人に関わり続け、助け続けて下さる神の愛と真実が記されています。  

先日の「聖書を読む会」で、出席者の一人の婦人が言われた「これは古い本だけど、私たちにぴったりのことが書かれているのね。」ということばに、私は心から同意せずにはおれませんでした。

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確かな神の愛

2001年07月

女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女達が忘れても、
このわたしはあなたを忘れない。

旧約聖書 イザヤ書 49章15節

家庭がいつも安息の場所というわけではありません。それどころか、悲しいことに、家庭がいつも安息のない場所になってしまっていることさえあります。家庭で安息できなくて、一体どこで安息できるでしょうか。でも、実際のところ、家庭で安息できずに、外に安息を求める人は多いのです。  

昨今の家庭における家族関係の実状は、従来の家庭に対する一般的な期待感を裏切るようなものになって来ています。夫婦の関係はもとより、最も確かなはずの母子の関係さえ揺らいで来ているのではないでしょうか。母親が自分の乳飲み子を忘れるはずがない、と聖書は言います。

しかし、この時代、そうとも言えなくなって来ました。子の虐待は今や身近な問題の一つになっています。そして親自身が深い心の傷を抱えている場合が多いのです。まさに、時代そのものが病んでいます。  

聖書は、時には母親だって子供のことを忘れることがあるかもしれない、たといそうだとしても、神が私たちのことを忘れることはない、と言っています。神の愛の方が乳飲み子に対する母親の愛よりも確かだと言うのです。家庭の中で、たとい母親にさえうとんじられ忘れられたとしても、神に忘れられることはないと神ご自身が言われます。

目に見えませんが、確かに生きておられ、私たち一人一人のことを心にかけていてくださる方がおられます。どうぞ希望を持って下さい。あなたは決して一人ではありません。

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こんなちっぽけな私でも

2001年06月

あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに。
人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。

旧約聖書 詩篇8篇4節

今、世界には60億を超える人たちがいます。今までに、この地球に生まれて来た人の数はどれぐらいになるのでしょうか。その人たちのほとんどが、今となれば誰にも覚えられず、何の記録にも残されていない存在です。有史以来、ほんの一握りの人たちだけが、何かの理由で記録に名をとどめ、誰かの記憶に残っているに過ぎません。

この聖書のことばはダビデという人が書いた詩の一節です。彼は紀元前一千年頃の信仰深きイスラエルの王でしたが、ある日、広大な天を見上げ、こぼれるように輝く満天の星々を仰ぎながら、こんな広大な天空を創られた神が、ちっぽけな存在である自分たちのことを、しかもその一人一人を心に留め、顧みていてくださるとは、何ということだろうかと思ったのです。

今私たちは、宇宙には一千億もの銀河が存在し、しかもその銀河の一つ一つに一千億もの星々が存在していること、そして地球がその銀河の中の実にちっぽけな星の一つでしかないことを知っています。私たちはその地球上の60何億の人々の中の一人として、ほんの一時地上に現れ、たちまち消えて行く存在でしかないのでしょうか。

そうではないことをダビデは知っていました。一人一人はかけがえのない尊い存在として神に造られ生かされているのだということを。神は一人一人のことを心に留め、いつも顧みていてくださる方なのです。あなたが造り主なる神の元に帰るとき、あなたの生涯は真の意味と目的を見出し、感謝と喜びを伴うものとなるでしょう。

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心の渇きをいやす水

2001年05月

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、私が与える水を飲む者はだれでも、
決して渇くことがありません。

新約聖書 ヨハネの福音書 4章13、14節

渇きには二種類あります。のどの渇きと心の渇きです。のどの渇きは、水分の補給を求める身体の叫びです。渇いた人は水を激しく求めます。放っておけばたちまち深刻な事態になり、死に至ります。心の渇きはどうでしょうか。水を飲んでも当然いやされません。特別な「水」が必要です。イエスはそれを与えると約束されました。

ある時、イエスは弟子たちを連れてサマリヤ地方を旅していました。当時のユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、彼らと接触することを避けました。「しかし(イエスは)サマリヤを通って行かなければならなかった」(ヨハネ4章4節)のです。この「ねばならなかった」はイエスの使命感を表しています。

イエスは、弟子たちが食物を買いに町に出かけている間、井戸の傍らで休んでいました。一人のサマリヤの婦人が水を汲みにやって来ます。水汲みは婦人の仕事で、普通は朝か夕方、それも連れ立ってやって来るのに、この婦人は昼間、一人で井戸にやって来たのです。

聖書のこのことばは、この婦人に向かってイエスが語られた言葉です。彼女はすでに5回も結婚に失敗し、今も、ある男との望みのない関係の中にあったのです。婦人はイエスの語る「水」(心の渇きをいやす水)のことをなかなか理解しませんでしたが、イエスと語るうちに大きく変えられて行きます。イエスによって心の渇きがいやされたのです。イエスは、この失意の中にある孤独な婦人との出会いを初めから設定しておられたのです。

イエスはあなたにも、心の渇きをいやす「水」をお与えくださいます。

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放蕩息子・・・罪の赦し

2001年04月

この息子は、死んでいたのが生き返り、
いなくなっていたのが見つかったのだから。

新約聖書 ルカの福音書15章24節

「今月のことば」にある「息子」は、父親から財産の分け前を受け取ると、遠い国に旅立ち、そこで自分の思う通りの生き方をして財産を使い果たし、大飢饉に見舞われ、もう飢え死にするしかないという八方ふさがり状態の中で、ふと父の家の豊かさを思い出すのです。

父に合わす顔もない息子でしたが、雇い人にしてもらおうと父の元に向かったところ、なんと父親は彼をいち早く見つけるや、かけ寄って彼を抱き、息子として祝福し、迎え入れてくれたのです。この息子は、父親の元に帰ることによって「死んでいたのが生き返」リ、それまでとは違う新しい生涯に入れられたのです。

イエスが語られたこの有名な物語に、イエス自身の死と復活の出来事を重ねてみると一層この物語のメッセージが見えて来ます。父親が身勝手な息子に示した破格の愛と寛容は、実は、神に対して身勝手な生き方をして来た私たちに代わって、十字架で死んでよみがえってくださったイエス・キリストを通して表された神の愛なのです。

もう間もなく「親分はイエス様」(斉藤耕一監督、渡瀬恒彦主演)という映画が封切られます。ヤクザが回心してクリスチャンになり、キリストこそ救い主だと叫びながら各地を巡り歩いて伝道するようになるという感動的な実話物語です。彼の生涯はイエス・キリストによって全く新しく変えられました。生まれ変ったのです。「どんな人生もやり直せる」というのがこの映画のメッセージです。ただの繰り返しとは違う新しい生涯を、あなたも始めることができます。

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自分を見失わないために

2001年03月

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。
「あなたはどこにいるのか。」

旧約聖書 創世記 3章9節

私は車の運転がどちらかと言えば好きな方ですが、雨の降る夜だけは例外です。雨にぬれた路面がとても見にくいからです。暗い路は特にそうです。路肩の白線を必死に追います。その白線もないとなると実に不安です。ふと思うのは、黒々とした夜の海を航行する船舶のことです。灯台の明かりがどんなに助けになることでしょうか。

また、いろいろな団体や組織の中で、長と名のつく立場に着いた人は、まず前任者がどんなことをどんな風にやっていたかを知ろうとすることでしょう。そして多くの場合は、その前例に従って事を進めて行くことでしょう。新しいことをするのは不安が伴います。どうなって行くのかわからないからです。

ところで私たちは、自分がどこにいるのか、どちらに進んだら良いのかわからないと不安です。手本やガイドやマニュアルを求めます。とりあえず周囲を見て、他の人たちと同じようにすることで安心しようとする人が多いのではないでしょうか。

聖書のこのことばは、神の戒めを破り、神の元から背き去った最初の人アダムを捜し求める神のことばのようですが、実は、どこにいるのかわからないのはアダムの方なのです。神との関係を失ったとき、アダムは自分を見失いました。自分が何者で、何をどうしたら良いのかわからくなってしまったのです。神の声はそのことを自覚させるためのものです。人は神との関係の中でのみ自分を見出すことができるのです。

神はあなたのことも捜し求め、呼びかけています。「あなたはどこにいるのか」と。

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束縛からの解放

2001年02月

もしあなた方が、私のことばにとどまるなら、
あなた方は本当に私の弟子です。
そして、あなた方は真理を知り、
真理はあなた方を自由にします。

新約聖書 ヨハネの福音書8章31~32節

「真理はあなたを自由にする。」何と魅力あることばでしょうか。少なくとも、あなたが日頃、何らかの束縛や不自由を感じておられるなら、そうではないでしょうか。

ある人は、人の目や人の評価に縛られています。そのために自分の考えや判断で動くことができません。画数が悪い、日が悪いと言われて、子供の名前を変えたり、旅行の日取りを変えます。世間体を気にしてわざわざ不自由な生き方をしている人は結構います。

自分の思いや考えにとらわれて、自分で自分を不自由にしている人もいます。人をどうしても赦せずに、いつまでも憎しみと復讐心に支配されている人。自分で自分を受け入れられず、喜んで生き行けない人は不適切な自己評価に縛られているのです。

もうこれきりにしようと何度も決心しながら、どうしてもやめられずに敗北感を感じている人、逆に開き直って正当化している人。人間は案外に弱い存在です。

イエス・キリストは人生の本当の意味と目的を教えてくれます。自分は何者なのか、自分がどこから来てどこに行くのか、私たちが日々どのように生きて行ったら良いかを教えてくれます。それらの「真理」を私たちが知って受け入れるとき、それまで自分を縛っていた様々な束縛から解放せれ、自由が与えられるのです。

かつて、深酒に縛られ、度々「虎箱」に入れられては息子さんの手を煩わせていた男性が、イエス・キリストは復活して今も生きておられると知った時、大きな喜びとともに新しい日々が始まり、気がつくと、それまで彼を縛っていた束縛から解放されていたのです。

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最大級の評価

2001年01月

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。

旧約聖書 イザヤ書 43章4節

私たちは自分が何かの役に立っている、必要とされていると思うとき、自分には価値があると感じます。逆に、自分が何の役にも立っていない、誰も自分を必要としていないと思うと、自分には価値がないと考えてしまいます。自分の存在価値を見出せない人は喜んで生きて行けません。仕方なく生きるか、投げやりな生き方をすることになるでしょう。  

親や周囲の人からいつも否定的なことばを聞かされている人も同様です。お前はだめだ。役立たずだ。お前のような者はいない方がましだ。お前は間違って生まれて来てしまったんだ。などと言われ続けていたら、その人は自分が生きていることを心から喜ぶことができるでしょうか。自分まで自分の存在価値を疑うようになりはしないでしょうか。  

聖書では、神は私たちに向かって「あなたは高価で尊い。」また「わたしはあなたを愛している。」とも言っています。人の評価ではなく、また自分自身の評価でもなく、神ご自身があなたを高く、尊く評価していてくださるのです。

誰かと比較しての評価ではありません。あなたをあなたとして、ありのままのあなたを「高価で尊い」と宣言してくださるのです。何かができるからではなく、何かを持っているからでもありません。

言わば存在していること自体を喜び、評価してくださるのです。状況の変化に左右されることのない、変わることのない愛で私たちを愛していてくださるのです。  

愛は信頼して受け取るまではその人のものにはなりません。あなたに向けて語られている神のことばにあなたはどのようにお応えになりますか。

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知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
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