浦安聖約キリスト教会

やみを照らす光

2002年12月

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

旧約聖書 イザヤ書9章2節

クリスマスのイルミネーションが街の夜景を楽しげに演出します。クリスマスは「やみに輝く光の祭典」と言えるでしょう。イエス・キリストは「やみを照らすまことの光」(救い主)として二千年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになったからです。

野原で羊の夜番をしていた羊飼いたちは、突然まばゆい光にめぐり照らされ、救い主誕生の御告げを聞きました。また東方の博士たちは、夜空にひときわ輝く不思議な星に導かれて、救い主なる幼子イエスを礼拝しにベツレヘムを訪れました。

やみを照らす光は人々に希望と喜びをもたらします。子どもの頃、よく停電がありました。ろうそくの心もとない明かりの中で、電気がつくのをまだかまだかと待ちます。パッと電灯がついた時、家族の間に一斉に安堵の声が上がるのです。家の中が明るくなります。心の中まで明るくなったような気がします。

イエス・キリストはこの世のやみを照らす「まことの光」として神のもとから来られました。この世のやみはイエス・キリストが来られた二千年前にも、また「今月のことば」が語られた紀元前8世紀にも多くの人の現実でした。そして今も、同種のやみが、不安と恐れを抱いて歩む人々の心をふさいでいます。

しかしイエス・キリストは、そのやみを照らし吹き払うために来られた救い主です。暗やみの原因である「罪」を十字架の上で負うことによって、不安と恐れを平安と喜びに変えて下さるお方です。救い主イエス・キリストこそ、あなたを愛する神からの尊い贈り物なのです。 

上へ

必ず実現する

2002年11月

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、
空しくわたしのところに帰っては来ない。
必ずわたしの望むことを成し遂げ、
わたしの言い送った事を成功させる

旧約聖書 イザヤ書 55章11節

この聖書のことばは旧約聖書の有名な預言者イザヤによって語られました。文中「わたし」とあるのは神ご自身のことです。ここには神のことばの確かさが表現されています。神が語られたことは必ず実現すると記されています。 
 
私たちはセールストークに注意する必要があります。巧みなことばに乗せられて、買わなくても良いものを買わされたという経験をした人は少なくないでしょう。人を気持ち良くすることばや耳に心地よいことばが人を欺く罠であることが多いのです。

選挙運動の期間中、うるさいほどに叫ばれる「公約」が、当選後次第にトーンダウンするのはよくあることです。努力はしても現実の厳しさのために願っていたような方向に事態が進まず、結果的に公約を果たせなかったという場合もあるでしょう。

人はことばの無力さ、無意味さを味わわされるうちに、次第にことばに失望し、期待しなくなって行きます。ことばに対する不信感はそのまま人間不信につながります。真実に語ることよりも上手に語ることの方が評価される社会は健全とは言えません。

神のことばは決して空しく終わりません。必ず神のみわざを成し遂げます。神はそのことを雨や雪にたとえています(10節)。それらは地を潤し、作物を育て、実りをもたらし、人々を養います。神は私たちに呼びかけています。「聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」(イザヤ55章3節)。

神は真実で全能なお方です。語られた通りを行なわれます。あなたも神のことばである聖書に耳を傾けてみませんか。

上へ

あなたは"真実"を知っていますか?

2002年10月

真実の唇はいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ。
悪をたくらむ者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。

旧約聖書 箴言12章19~20節

北朝鮮の拉致問題調査団の報告を聞いて納得した人は少ないだろう。むしろ疑惑は深まるばかりだ。いくら調査をしても真実には到達し得ないのではないかという底無しの不信感が湧いて来る。拉致された人たちの家族の方々の苦しみや憤りを思うとともに、あのような国に住む人たちの悲惨を思わずにはいられない。

目を転じて、この国の現実に目をやる時、そこにもまた、そこはかとなく漂う不信感を感じる。あらゆる「表示」が疑わしい。根拠のない疑いを吹き払えない現実がある。繰り返し露呈する虚偽表示や虚偽報告の実態が氷山の一角にしか過ぎないのではないかと思える。一体、何を根拠に信頼したら良いのだろうか。本当のことを知らされないことによって成り立って来た社会とは、一体何なのだろうかと思う。

少し前のある日曜日のこと、私は路上に縦列駐車した自分の車を発進させる際、前の車の後ろのバンパーに軽く接触してしまった。まずい!どうしようか、このまま行ってしまおうか、そんなことを思いながら数十メーター進んでしまった。その時、突然、私の心に、その日私が礼拝で語った締めくくりの言葉が響いた。

「神を恐れ、神の前に誠実に歩もうではないか」
私は自分の思いを恥じ、直ちに車を停めて引き返し、名刺に事情を書いてワイパーに挟んで帰宅した。結局、先方にいろいろとご面倒をおかけしてしまったが、私には幸いだった。もし私が、あそこで逃げてしまったならば、私はおそらく次の週から聖書を語れなくなっていただろう。神の守りを感謝している。

上へ

知識だけではない

2002年09月

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです

新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節

イエス・キリストが弟子たちに語ったことばです。何と力強いことばでしょうか。騒がしく目まぐるしいほどに氾濫する情報の中で、かえって孤独と不安を感じながら生きる私たち現代人に力強く語りかけて来ます。

イエス・キリストは「道」「真理」「いのち」について語ったのではなく、自分こそが「道」「真理」「いのち」そのものなのだと告げています。ですから、イエス・キリストを信じて受け入れる人は「道」「真理」「いのち」そのものを得るのです。

「道」とは天地万物の創造者である神に立ち返る道、神との交わりを得る道のことです。イエス・キリストを信じて受け入れるとき、人はただちに神との交わりの中に入れられるのです。

「真理」とは私たちが生きる真の意味と目的のことです。イエス・キリストを信じて受け入れるとき、人は自分が何のために生きるのかを悟ります。

「いのち」とは死に至るいのちではなく、死を越えるいのちです。イエス・キリストを信じて受け入れるとき、人は死さえ奪い去ることのない喜びと平安を心に持つのです。

料理の本に並ぶごちそうは、どんなにおいしそうでも実際に味わうことはできません。また詳細なレシピを読んでも少しも栄養にはなりませんし、活力にもなりません。聖書を通してイエス・キリストが「道」「真理」「いのち」だと知ってもそれは知識だけです。しかし、もしあなたがイエス・キリストを信じて受け入れるなら、そのときこそ「道」「真理」「いのち」はあなたのものとなるのです。

上へ

新しい人生のはじまり

2002年08月

ザアカイ。急いで降りて来なさい。
きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。

新約聖書 ルカの福音書 19章5節

ザアカイは孤独でした。彼のさびしさや悲しみを理解する者はいませんでした。彼の苦しい胸の内を打ち明けられる人もいませんでした。仕事仲間はいたし、彼の一言で動く者たちもいました。話し相手を集めるだけの財力も十分にありました。けれども、彼の心はいつも満たされず、何かを求めて激しく渇いていたのです。

そのような時に、あのイエスが彼の町(エリコ)にやって来たのです。ザアカイはイエスを見ようと出て行きましたが、すでに沿道は群集で溢れ、背の低かった彼には何も見えませんでした。それでも彼はあきらめずに、前方のいちじく桑の木に登り、葉隠れにイエスを見詰めていたところ、その木の下にさしかかったイエスが、突然上を見上げると、このことばをザアカイに投げかけたのです。

「ザアカイは急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎え」家にお連れしました。それを見た人々は「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってイエスに失望したと聖書に記されています。イエスは群集の歓呼の声よりも、この心の渇いた一人の人の、声にならない心の叫びを大切にされたのです。

その日はザアカイの人生を一新するものとなりました。それまで、権力と財力に頼って生きて来た彼でしたが、イエスに出会い、イエスと交わる中で、いつしか愛と真実の中に生きる者と変えられたのです。道徳や教育の結果ではなく、イエス・キリストとの出会いと交わりが彼を新しい人に変えたのです。

今もイエスは、渇いた心でご自分のところに来る者を新しく造り変えて下さいます。

上へ

私もやり直せる

2002年07月

だれでもキリストの内にあるなら、
その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、
見よ、すべてが新しくなりました。

新約聖書 コリント人への手紙 5章17節

パソコンのゲームはワンタッチで何度でも初めからやり直せます。同じように人生をやり直せたら、きっと何人もの人がそうすることでしょう。
あなたはいかがですか。

聖書は、目に見えない牢屋のようなものに閉じ込められていて、抜け出そうともがいても、そこから一歩も出られないでいる者を解放し、全く新しい生涯へと導き入れてくださるキリストの愛と御力について、力強く印象的に語っています。

このキリストを通して与えられる新しい生涯は、彼を「救い主」として信じるすべての人に差し出されています。年令も性別も学歴も職業も国籍も、そのようなことにいっさい関係なく、キリストがだれであるかを知って受け入れる人なら、文字通り「だれでも」受け取ることができるのです。

しかも、それは何かの修行や研修の結果得られるのではなく、ただキリストの愛と御力によってもたらされるものなのです。「新しく造られた者」とある通り、キリストの下さる新しいいのちによって生かされるのです。今までなかったものが、キリストを信じることによって与えられ、それによって「すべてが新しくなる」のです。

あなたは今まで何度もやり直そうと決心し、努力したかもしれません。にもかかわらず、思うような結果にならず、失望し、投げやりになっていたかもしれません。しかし今、もしあなたがキリストを知って受け入れるならば、あなたは「新しく造られた者」となり、「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなる」のを見るでしょう。

上へ

家庭にあふれる祝福

2002年06月

もしひとりなら打ち負かされても、
ふたりなら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単には切れない。

旧約聖書 伝道者の書 4章12節

この聖書のことばは結婚の、また家庭の祝福について語っています。夫婦関係が核となり礎となって築かれる家庭の中で、家族は相互に支えられ、養われ、育まれます。家庭という場においてしか生れ育たないもの、期待できないことがあります。それは豊かで尊いものです。そこに家庭のかけがえのなさがあります。

家庭は本来安息の場です。利害の場でも戦いの場でもないはずです。警戒し身構える必要のないくつろぎの場のはずです。家族はみなそれぞれに、外で――職場で、近隣で、学校で、緊張し、疲れ、しばしば傷ついて家庭に帰ります。家庭でようやく武装を解き、安心して自分を出し、くつろぎます。もし、家庭でも安心できず、警戒を解くことができないとしたら、どこで本当の自分になれるのでしょう。

また家庭は成長の場です。大人も子供もそれぞれに、人間として成長する場です。
家庭という安定した枠組み、容易には壊れない(はずの)関係の中でこそ、培われ育まれるものがあります。ありのままを受け入れ祝福し合う愛、お互いを信頼して待ち続ける忍耐、弱さを理解し赦し合う寛容等々。家庭は人間の豊かさの最良の苗床です。

聖書は、ふたりであることの幸いを語る流れの中で、「三つ撚りの糸」のことをも語ります。実は、結婚の、また家庭の祝福の鍵がここに隠されています。私たちは本来祝福の場であるはずの家庭をのろいの場としてしまう弱い器です。決して切れない糸であるキリストと共に歩む時、のろいの場は祝福の場と変えられます。

上へ

疲れたと思ったら

2002年05月

すべて疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。

新約聖書 マタイの福音書11章28節

今の世の中、疲れます。目まぐるしい変化について行くのに疲れます。新しいことに次々と対応するのに疲れます。先行きどうなるか見えないので疲れます。やらなきゃならないことが山ほどあるので疲れます。もっともっとで疲れます。どれだけやれば良いのかわからないので疲れます。人と合わせるのに疲れます。ふりをするのに疲れます。周囲の期待に応えるのに疲れます。自分の望みを追うのに疲れます。評価されないので疲れます。評価されるので疲れます。結果を出すのに疲れます。結果が出ないので疲れます。とにかく今の世の中、疲れます。世の中自体が疲れています。

ですから、いやし系が流行ります。音によって、色によって、香りによって、摂取物によって。安息がコンパクトな商品として成り立つ時代になりました。ポケットにおさまる安息。安息の空間も商品です。そこに身を置くひとときの安息をお金で買う時代です。しかし、そのような安息が果たして心をいやしてくれるでしょうか。

イエス・キリストの招きの声が響きます。すべての「疲れた人、重荷を負っている人」をご自分のところに招く声。「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」との力強い約束のことばが後に続きます。招かれているのが「すべて」の疲れた人、重荷を負っている人だということを心に留めておいていただきたいと思います。あなたがどんな理由であったにしても「疲れた人、重荷を負っている人」であるなら、あなたはイエス・キリストに招かれています。「わたしのところに来なさい。」と。

上へ

表面だけを取り繕っても

2002年04月

人から出るもの、これが人を汚すのです。

新約聖書 マルコの福音書7章20節

痛みを伴う改革が進行中のようですが、今のところ痛みばかりが目立ちます。長い間、当たり前のように続いて来た社会の仕組みややり方を変えることは容易ではないでしょう。慣れ親しんだやり方を変えるだけでも抵抗を感じます。まして、それまでの利権や利得が失われるとなれば強行に反対する人たちも出て来ようというものです。それでもやらねばならないのは、今の社会の仕組みややり方がもはや時代に合わなくなっていて、社会の発展を妨げていると見るからでしょう。確かに改革は必要です。

改革が論議されている一方で明らかになって来たことは、人が組織の中で公正に身を処したり金銭を管理したりすることの難しさです。社会の仕組みを変えることで本当に問題が解消するのだろうかと疑問に思うほど次々と不正が発覚しています。今までは見えにくかったことが少しは見えて来たということが改革の成果の一部ならば、それはそれで歓迎すべきことですが、だからと言って改革が不正を一掃するとは到底思えません。

今進められている改革はあくまでも外側の器だけを問題にしています。人の内側の問題は政治を越えているのでしょうが、社会を構成し、政治や行政を担っているのは人なのですから、人の問題を棚上げすることはできません。人の内側が変わらない限り、人から出る「汚れ」は自分を汚し、人を汚し、社会を汚し続けます。

イエス・キリストこそ、悪に傾く私たちの心を清め、正義と公正と真実を愛し行う者へと私たちを造り変えてくださるお方です。

上へ

全てを知っている神の目

2002年03月

おおいかぶされているもので現わされないものはなく、
隠されているもので、知られずに済むものはありません。

新約聖書 ルカの福音書12章2節

最近特に虚偽の発言や偽装表示が明るみに出て政治問題や社会問題になるケースが目立ちます。以前はそのまま通ってしまって「うまく行っていた」かもしれないことが、最近は、社会全体の情報に対する姿勢や扱い方が変わったせいか、思わぬところで不正として明るみに出され、社会の厳しい批判を浴びて、それまでの信用や栄誉がたちまち失われることになります。不正が増えたと言うより不正の発覚が増えたということなのでしょう。このことが不正自体の減少につながることを願うものです。

「今月のことば」はイエス・キリストが語られたことばです。このことばの背景には、この世界にはすべてのことをご存知の神がおられ、その方の目から隠れおおせるものなど何一つないという理解があります。人の目はごまかせても神の目をごまかすことなどできません。神の時が来れば一切は明らかになるのです。どんな巧妙なたくらみも明白になります。

もしかするとこの世界はうずたかい不正の山の上に築かれているのかもしれません。その中に本物の真実(おかしな言い方ですが)がまるで宝石のように輝くのを見ることができるなら幸いです。政治や社会の問題として不正を糾弾し是正することは当然のことですが、私たちの日常の不正、うそやごまかしもまた神の目に隠れていないことを承知していなければなりません。すべての人はいつか神の前に立たされます。私たちは今、神の前に自らの不正を告白し赦しを得、真に真実に生きることを求めるべきではないでしょうか。

上へ

希望を捨てない

2002年02月

彼は望みえないときに
望みを抱いて信じました。

新約聖書 ローマ人への手紙 4章18節

「望みえないときに望みを抱く」ことは無理難題です。不可能だとわかっていながらどうしてなお望むことができるでしょうか。

「彼」は旧約聖書に出て来るアブラハムという人物ですが、「望み得ない時に望みを抱く」ことができました。彼が、この世界には全能の神がおられ、その語られたことは必ず実現すると信じたからです。聖書には、神がかつてアブラハムに語られたことがどのように実際に歴史の中で実現して行ったかが書かれています。彼の信仰という経路を通して神の全能の力が働き、約束が具体化して行ったのです。

私がまだ駆け出しの牧師の頃、一人の高校生が教会を訪ねて来ました。登校途中に田んぼのかなたに十字架を見て、あそこに行けば解決があるような気がしてやって来たと言うのです。彼女は家族にも言えない問題に苦しんでいて、生きること自体をいとうようになり、食事もほとんど採らなくなっていたのです。

生命に関わるような状態だったことを当時私は知りませんでした。彼女の家はキリスト教とはおよそ縁のない古い農家でした。彼女自身、なぜかキリスト教嫌いだったそうですが、どうにもならない苦しみの中で、それまでは気にも留めなかった田んぼのかなたの十字架が突如彼女の心に望みの灯をともしたのです。

その日、初めて聞くキリストの福音を信じ受け入れた彼女が、心の重荷を解かれ、平安と希望をもって新たな歩みを始めたことを、子育てに励む彼女の近況とともに、今でも神に感謝しないではおられません。神は今「望みえない」あなたを「望みを抱く」者へと変えて下さるお方です。

上へ

神の愛で満たされて

2002年01月

この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。

新約聖書 ローマ人への手紙 5章5節

奇跡の生還を果たした、あのアポロ13号の船長ジム・ラベル氏との出会いを通してクリスチャンになった方のお話を聞きました。彼は、あのような絶望的な状況から彼らが生還できたのは、何より彼らの「信仰」によることだと気づかされました。

三人の宇宙飛行士たちは、「神は耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさらないばかりか、耐えることのできるように試練とともに脱出の道も備えて下さる方」だという聖書のことばを信じることによって最後まであきらめずに忍耐強く行動できたのだ、と彼は納得したのです。

絶望的な状況の中で宇宙飛行士たちに生き抜く力を与え続けた揺るぎない希望、それこそこの不法と不安の時代に生きる私たちが必要としているものなのではないでしょうか。人は希望なしでは生きて行けません。

ナチスの強制収容所の極限状況から生還したV.E.フランクルがそこでの体験を心理学者の視点で書いた「夜と霧」という本の中で「彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡していった。未来を失うと共に彼はその拠り所を失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。」と記しています。

聖書は「失望に終わることのない希望」について、その根拠を「神の愛が私たちの心に注がれているから」と力強く語っています。心に注がれる神の愛に根差した「失望に終わることのない希望」をあなたもお求めになりませんか。

上へ

知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
日本聖約キリスト教団 浦安聖約キリスト教会 牧師 羅 宇植 〒279-0022 千葉県浦安市今川2-10-5 Tel&FAX 047-353-2771
Copyright (C) Urayasu Covenant Christ Church. All rights reserved.
webmaster サイト規約 ○リンク