浦安聖約キリスト教会

無価値に見えるものの中から

2003年12月

ところが、彼らがそこにいる間に
マリヤは月が満ちて男子の初子を産んだ。
それで、布にくるんで飼葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

新約聖書 ルカの福音書2章6~7節

クリスマス物語はメルヘンではありません。歴史にしっかり刻まれた出来事です。
救い主の母となるマリヤと夫ヨセフは、住民登録を命ずるローマ皇帝アウグストの勅令に従って、本籍地のユダヤのベツレヘムにやって来ましたが、町はすでに多くの旅人を迎え入れ、身重のマリヤを受け入れる余地はなく、家畜をつなぐための場所を提供されただけでした。そのような、おそらくは暗くて臭くて寒々しい場所で、マリヤは救い主を出産したのです。

そこは出産場所として、また何よりも神の御子がお生まれになる場所として全くふさわしくないように思えます。しかし実は、そのことの中に、救い主イエス・キリストが成し遂げる救いのみわざがすでに暗示されています。

人々は神の御子の到来を知らず、場所を譲ることもなく、締め出してしまいました。そのことは、後に人々がイエスを救い主として認めず、十字架にかけてしまうことにつながります。また、豪華な宮殿にではなく、貧しく粗末な家畜小屋にお生まれになった神の御子は、「暗くて臭くて寒々しい」私たちの心にお宿り下さる救い主なのです。

先月の「ことば」に書きましたように、私たちの心はイエスが言われる「白く塗られた墓」のようで「外側は美しく見えても、内側は・・・あらゆる汚れたものでいっぱい」なのではないでしょうか。しかしイエス・キリストは、そのような私たちの心の中に来てお住み下さり、清めて下さるお方です。このクリスマスに、救い主に場所を差し上げ、あなたの心にお迎えしませんか。

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内面の美しさを磨きましょう

2003年11月

麗しさは偽り。美しさは虚しい。
しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。

旧約聖書 箴言 31章30節

最近のエステばやりは、とうとう男性エステが登場するほどです。そんな世の流れに逆らうような聖書のことばは、多くの女性を(男性もかもしれません)敵に回しかねませんが、勇気を出して掲げることにしました。

美しいことが悪いはずはありません。ただ、外側だけを美しく整えても、内側が美しくなければ、それは「偽り」で「虚しい」と言うのです。外側の美しさで内側の醜さを隠していると言うのではありません。外側の美しさだけにこだわることのおかしさを言っているのです。

人は身体と心(霊)でできているのですから、身体だけをみが磨き上げても心の有様に関心を払わないなら、これ以上のアンバランスはないでしょう。 残念なことですが、外側の美しさは過ぎ行くものです。

だからこそ今、と思う方、あらゆる手を尽くして引き止めようとする方、また、美しく老いることを目指す方もおられましょう。過ぎ行くことにさえそれほどに熱心であるのなら、過ぎ行くことのない内側の美しさのことには、なおさら熱心に心配りをすべきではないでしょうか。

「主を恐れる女は」とありますが、これは創造主である聖なる神の前に日々生かされていることを心に留めて、神に対するへりくだりと誠実をもって生活する女性のことを言っています。しかし、このことは言うまでもなく男性にも当てはまることで、私たちは自分の外側よりも心の有様にもっと関心を払うべきではないでしょうか。

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人生の激震にどう備えますか?

2003年10月

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
私は決して、揺るがされない。

旧約聖書 詩篇62篇2節

十勝沖地震は、またしても私たちに地震の恐ろしさを思い知らせました。前後して関東南部であった地震も、規模こそ比較になりませんでしたが、地震の脅威をもう一度身近に感じさせました。東海地震の可能性の高まりが伝えられるにつけ、地震に対する不安は募るばかりです。

地震はいつ起きるかわかりません。家にいる時か外出時か、寝ている時か食事時か誰にもわからないのです。科学の力を結集して予知が試みられていますが、残念ながらまだまだ困難のようです。それでも、絶対安全な程度だと始めからわかっていれば、それほど不安にはならないでしょうが、実際は起きてから始めてわかるのです。ですから不安です。

しかし、何より不安なのは、当たり前に拠り所としている自分の足元が揺れ動くことではないでしょうか。人は、時に危機的な出来事や思いもかけない出来事に突如として襲われます。その結果、一夜にして生活が大きく変動することもあります。そのような、言わば人生の激震にどのように備えたら良いでしょうか。どんな時にも、しっかりと心を支えてくれる不動の拠り所がなければ、打ちのめされて立ち直れないかもしれません。

「今月のことば」を語ったのはダビデという王様です。彼はたびたび激震を経験しましたが、常に変わらない拠り所を持っていましたので、いつもそれらを乗り越え、希望を持って前進できたのです。創造主なる神こそ、唯一の確かな拠り所です。

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どんな時でも

2003年09月

わたしは決してあなたを離れず
また、あなたを捨てない。

新約聖書 ヘブル人への手紙13章5節

「今月のことば」はイエス・キリストのことばです。イエス・キリストは誰も自分のことなどわかってくれないと思っている孤独なあなたにも、将来に少しも希望が持てなくて投げやりな日々を過ごしているあなたにも、恐れと不安で次の一歩をどうしても踏み出せないでいるあたなにも語りかけておられます。「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」と。

レーナ・マリアさんのことをご存知でしょうか。このところ毎年のように来日しては、あの明るい透き通る歌声と存在そのもので多くの人に希望と喜びを与えてくれています。彼女は生まれつき両腕がありません。左脚は右脚の半分ぐらいの長さしかなく、義足をつけています。けれども彼女は車の運転もお料理もあらゆることをこなします。世界を旅して演奏し、かつてはパラリンピックで好成績を収めています。

彼女は自分を障害者だと思ったことも、ハンデキャップに悩むこともないそうです。彼女の手記にはこう書かれています。「神様はきっと何か特別な計画があって、私をこのように造られたのだと思います。」彼女の積極的な生き方を生み出している原動力を尋ねると、彼女は次のように答えるのです。「どんなときも私を見捨てず、信じる者に前向きに生きる力を与えてくださるイエス様が一緒にいてくださるから」と。

イエス・キリストはあなたにも前向きに生きる力を与えてくださるお方です。あなたも聖書を通してイエス・キリストと出会うことができます。

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自分の存在の真の意味と価値・・・希望と喜びのある生き方

2003年08月

主を恐れることは知識の初めである。

旧約聖書 箴言1章7節

かつて17歳が、それから14歳が、そして今12歳が世間を騒がせ、不安と戸惑いを引き起こしています。衝動にかられて凶悪犯罪を犯す少年、甘言につられて容易に「風俗」の網にかかる少女たち、これらは彼ら自身の問題である以上に、彼らを取り巻く社会、それも、個々人を超えた「時代」の問題のように思います。言わば、この時代が抱える病気のようなもので、他の様々な症状も同じ病根から現われて来ます。

この時代の病根は「主(=万物の創造者であり、支配者である神)を恐れること」を忘れたことにあります。人がその造り主を見失い、その方を恐れることをやめたとき、人は自分たちの存在の真の意味や価値、また目的を失いました。

存在の事実だけがあって、存在の意味や価値が失われている時代に、人は一体どのように希望と喜びのある生き方を見出し得るでしょうか。存在の事実がただ煩わしく感じられるだけの日々を、それでもなお生きなければならない底無しの虚無を、刹那的な快楽や仮想現実への逃避で紛らわせずにはいられないのは、若者だけのことではないと思います。

「主を恐れることは知識の初め」、「生」の出発点です。人は造り主である神を礼拝するとき、人としての本来の「生」を取り戻すことができます。礼拝の中で神と向き合い、そのみことばに触れるとき、自分の尊さを、そして他者の尊さをわきまえます。あなたがもし、自分の存在を煩わしいと感じ、あるいは無意味だと思っているのなら、どうぞ礼拝においで下さい。あなたはそこで本当の自分を見出すことになるでしょう。

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だから、大丈夫!

2003年07月

ですから、明日のための心配は無用です。
明日のことは明日が心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。

新約聖書 マタイの福音書 6章34節

不安な時代です。明日、どうなるかさえわかりません。今日は他人事でも、明日は自分のことになっているかもしれないのです。絶対、大丈夫!の保証のない時代です。それほど、この時代は不安定で、不透明です。

そのような時代だからこそ、ますます明日のことが心配になります。しかし、実のところ、明日がどうなるかは、明日にならないとわからないのです。「ですから、明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。」とイエス・キリストは語るのです。

この静かな確信に満ちたことばは、私たちを際限のない空しい思い煩いから解き放ってくれます。実際、「労苦はその日その日に十分あります。」その日、与えられ、託されたことに打ち込むことで手いっぱい、というのが私たちの実状ではないでしょうか。明日のための心配は、まさに無用です。

イエス・キリストは、先のことを考えたり、計画を立てたりするなと言っておられるのではありません。私たちには、その日その日になすべき務めと歩みが備えられていて、それに全力を尽くして生きて行けばいいのだ、と言っておられるのです。

私たちの教会にある一枚のポスターに気の利いた標語が書かれています。
「神を信じると、明日どんなことがあるのかわかるようになるのではなく、どなたが明日を備えてくださるのかがわかるようになる。」
どんなに不透明な時代にあっても、私たちのことをたえず心にかけてくださる神がおられることを知る人は平安です。なぜなら、愛なる神の全能の御手の中に自分の明日があることを承知しているからです。

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ただ神とともに

2003年06月

人よ。何が良いことなのか。
主(神)は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
へりくだってあなたの神とともに
歩むことではないか。

旧約聖書 ミカ書 6章8節

「国益」という言葉をよく耳にします。国際関係を重視しないではやって行けない時代です。国際化がかえって「自国」を意識させ、国としての利害に敏感にならせています。国の将来を考えて、今どうすることが良いことなのかを決めるには、それなりにしっかりした基準が必要でしょう。

このことは個人の生活においても言えます。「何が良いことなのか」を判断するための基準をどこに求めたら良いでしょうか。そのような基準は大きく分けて二つあるように思います。一つは、何が正しいことなのか、という基準です。もう一つは、何が徳(もうけ)になるか、というものです。

多くの人はその両方をうまく使い分けています。本音と建前という二重構造の中を巧みに泳ぎ回っているような人もいます。一般に、人は正しさよりも利害で動きやすいものです。利益につられて、悪いとわかっていても、ついやってしまうということがよくあります。

しかし、それが本当に益になるのかと言えば、そうではありません。一時はもうけたつもりでいても、実際には深刻な問題を抱え込んでしまったのだというに、やがて気づかされるのです。

「何が良いことなのか」どう行動したら良いのかを真剣に探ね求める人たちのために、聖書ははっきりとした基準を指し示してくれています。目先のもうけにとらわれず、正しさ、誠実さ、謙虚さを追い求め、あなたの[創造者なる]神とともに歩むなら、あなたの将来は揺るぎないものとなり、豊かな実りを刈り取ることになるのです。

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必要なことはひとつ

2003年05月

あなたは、いろいろなことを心配して気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。
いや、一つだけです。

新約聖書 ルカの福音書 10章41~42節

私たちは毎日「いろいろなことを心配して気を使って」生活しています。実際「いろいろなこと」があります。あり過ぎます。日々目まぐるしく変化する社会について行こうとすれば、いつでも新たな情報を追いかけていなければならないと思うでしょう。

それにしても「いろいろなこと」に囲まれ、「いろいろなこと」に追い回されていると、いつしか自分のごく身近なのことしか見えなくなって、やがて自分さえ見失ってしまいます。どこから来るのかわからないイライラにつきまとわれ、優しくしたい人にさえ辛く当ってしまう自分をどうしようもないという状態になりかねません。

イエス・キリストが上記のことばを語られたのは今から二千年も前のことですが、どうやら当時の人々も私たちと同じような問題を持っていたようです。マルタという女性が妹とともに旅の途上にあるイエスを家にお迎えし、もてなそうとしたのですが、「いろいろなことを心配して、気を使って」いるうちにイライラし始め、座り込んでイエスの話に聞き入っている妹に手伝うように言ってくれと、お客に頼み込んだのです。それに答えてイエスが語られたことばがこのことばなのです。

「いろいろなこと」忙しくしているうちに、「どうしても必要なこと」が何なのかわからなくなって、どうでもいいことに時間やエネルギーを取られてイライラするということはないでしょうか。

イエス・キリストは「どうしても必要なことはわずかで」実を言うと「一つだけ」だと言われます。あなたはそれを見出しておられますか。

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その怒り、ちょっと待て

2003年04月

だれでも、聞くには早く、語るには遅く、
怒るには遅いようにしなさい。
人の怒りは、神の義を実現するものではありません

新約聖書 ヤコブの手紙 2章19~20節

悪を見るとき、私たちは怒ります。傍観者でいられるときは怒りを感じなくても、それが自分に向けられたものとなれば、怒りを覚えずにはいられないのではないでしょうか。

人は正しいことが何かを知っていますし、事は正しく行われなければならないと考えます。悪や不正を容認したり見過ごしにすること自体が悪だということも承知しています。悪に対しては何かをしなければならないし、そうすることが正しいことだと考えるのです。

悪に対する怒りは、正義を振りかざして悪に立ち向かう、攻撃的な精神のエネルギーとなります。悪を成敗したり、悪に対して復讐する行為は、強力な道義的な支えを与えられるのです。国家の行為としての戦争もそのような支えを得て行われます。
 
しかし、正義を振りかざす「怒り」が実際に行うことと言えば、結局のところ、もう一つの悪でしかありません。人の品性を卑しめ、ぬくもりを奪い取り、表情を失わせるばかりか、あらゆる悪の種子を撒き散らすのです。復讐は復讐の果てしない連鎖を生み、恨みの記憶は消しがたいほどに深く人の心に刻み付けられます。

「人の怒りは神の義を実現するものではありません。」問題を生むだけで解決はしません。怒りに燃えて断罪し、天誅だ!聖戦だ!世直しだ!と叫ぶ前に、そして、怒りのこぶしを力任せに振り下ろす前に、心を落着けて聞くべきことをしっかりと聞こうではありませんか。心を低くして神のことばに耳を傾けてみようではありませんか。

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私が私であるのは

2003年03月

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、
また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

旧約聖書 伝道者の書 12章1節

あなたは「あなたの創造者」をご存知ですか。
あなたがあなたとしてこの地上に生まれ出ることに、あなた自身は関与していませんでした。ご両親から生まれ出たには違いありませんが、だからと言って、ご両親があなたをあなたとして形造ったのでないことは明らかです。

あなたをあなたとしてお造りになった方がおられます。かけがえのない存在としてのあなたを、まさにそのようなものとして、この世に生み出された方が、目には見えませんが確かにおられるのです。

あなたはたまたま今の時代に、何かの拍子に生まれて来てしまったのではなく、大きな大きな神のご計画の中で、生かされ、用いられるために生まれて来たのです。あなたには、あなたにしか占めることのできない場所があり、あなたにしかなし得ない務めがあります。

あなたが「あなたの創造者」である方を知るとき、あなたは自分が生きていることの真の意味を知るようになるでしょう。私たちは自分自身の創造者と向き合うとき、初めて自分が何者なのかを知るのです。

あなたが「あなたの創造者」を知ることが早ければ早いほど良いのは言うまでもないことです。空を打つような生き方を長く続けることは文字通り空しいことですから。そこで聖書は、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(心に留めよ)。」と力説するのです。

しかし、このことは年配者にとっても差し迫った問題です。「何の喜びもない。」と言うとしつき年月が近づく前に処理しておくべき問題だからです。

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試練は必ず超えられる

2003年02月

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

新約聖書 コリント人への手紙第一 第10章13節

私たちの生活はいつも♪おいて追風に帆かけてシュラシュシュシュ♪というわけには行きません。時には逆風に前進を阻まれ、疲れ果ててしまいます。また時には突然の嵐に翻弄されて進路を失い、遂には難船して絶望の渕に投げ込まれるかもしれません。

聖書は「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではない」と言っています。試練のただ中にいる者には、とかく自分だけがこんなつらい目に会っていると思えるのですが、実はそうではなくて、すでに何人もの人が同じような道をたどって先に進んで行ったのです。実際に、そのことがわかると、私たちはそれだけでもとても力づけられます。

神はご自身の真実にかけて、私たちに約束してくださっています。「耐えることのできないような試練に会わせるようなことは」決してしないと。どんなに厳しく不可能に思えても、あなたはその試練に必ず耐えることができます。神は私たちを試練に会わせることによって滅ぼそうとお考えなのではありません。あなたの会っている試練は、あなたに耐えられる限度内の試練なのです。 

神は「むしろ耐えることのできるように、試練とともに脱出の道も備えてくださる」お方です。あきらめて投げ出す前に「脱出の道」を探りましょう。見つからなければ、備えてくださるように、神に祈りましょう。神は真実なお方ですから、必ず約束通りにしてくださいます。

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良い羊飼いとは?

2003年01月

わたしが来たのは、羊がいのちを得、
また、それを豊かに持つためです。
わたしは良い牧者です。
良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

新約聖書 ヨハネの福音書10章10~11節

今年いただいた年賀状の図柄のトップは、やはりダントツで羊でした。私の年賀状のデザインも羊でした。私はその下に「今月のことば」を書き沿えました。

聖書には羊に関連したことばがかなりありますが、その中でも「今月のことば」は特にすばらしいメッセージを持っているので、多くの人の心に留まっています。語っているのはイエス・キリストです。彼はその中で、ご自分がこの世界に来られた目的をはっきりと述べています。「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」だと。

聖書は私たち人間のことをよく「羊」にたとえます。私たちは生きていますが、様々な欲望に欺かれ、支配され、振り回され、互いに傷つけ合って生きています。そして疲れ果て、絶望し、投げやりな生活に陥ってしまいます。そのような私たちが、イエス・キリストから「いのち」を受けるとき、私たちの中に「愛、喜び、平安、寛容、善意、誠実、柔和、自制」といった品性が、神からのものとして生み出されます。

イエス・キリストはまた、ご自分を「良い羊飼い」だと言われました。
「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。」
イエス・キリストはまさにその通りを実行なさいました。十字架上での死こそ、それです。彼自身は何一つ神の前に悪を行いませんでしたが、私たちの身代わりとなって神のさばきを受けて下さいました。そのことによって私たちは神に赦され、受け入れられる者とされるのです。イエス・キリストはあなたを愛し、罪と死から命がけであなたを救い出してくださる「良い羊飼い」です。

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知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
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