浦安聖約キリスト教会

永遠のいのち

2004年12月

神は、実に、そのひとり子を
お与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。

新約聖書 ヨハネの福音書 3章16節

クリスマスは、神が私たち(人類)を愛しておられることを明らかにしてくださった日です。それも「ひとり子」を与えるほどの愛で愛してくださっていることを。
神の御子イエス・キリストのお誕生日が12月25日だとは聖書に書かれていませんが、「その日」が歴史上の1日として存在したことは確かですから、教会は伝統的に12月25日を「その日」と定めてお祝いして来ました。

神が御子を、人としてこの世界に送ってくださったことは、神が私たちに特別な関心を持っておられることを示しています。神はどこかにいる得体の知れない何者かでも、遠く離れた所から私たちを傍観しているような存在でもなく、私たちと同じ世界に身を置き、私たちと同じような生活を経験して、私たちの問題や苦しみを理解してくださる方なのです。愛は関心を示します。知ろうとします。神は私たちひとりひとりに関心をもって近づき、私たちのことを知って受け入れ、助けてくださるお方です。

神の御子イエス・キリストがこの世界に来られたのは、罪を裁くためではありませんでした。むしろ罪と悪に満ちたこの世界の現実を受け入れ、その中で様々に苦しむ私たち人間を救うためでした。神の御子自身は罪を犯されませんでしたが、人々は彼を裁きの場に立たせ、神を冒涜する者、世の秩序を乱す者として断罪し、十字架につけて殺しました。人としてこの世界に来られた神の御子を、人類は拒み、罪に定め、処刑したのです。

しかし、神の御子は、実に、そのことのためにこの世界に来られたのです。人類の罪を身代わりに負って、神の裁きを引き受け、彼を信じる者がひとりも滅びないで、神の愛の中に永遠に生きる者となるために、この世界に来てくださったのです。

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こころを満たすもの

2004年10月

満ち足りる心を伴う敬虔こそ、
大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、
またこの世から持って出ることもできません。

新約聖書 テモテへの手紙第一 6章6、7節

日本の経済はようやく上向き、長い不況から抜け出せそうな気配ですが、まだまだ金回りが良くなったとは言えないでしょう。それでも、日本が物質的に豊かな国だということは、確かな事実です。大抵の物は容易に手に入りますし、貧しい国の人たちには到底望めないような「ぜいたく」な暮らしが当たり前になっている国なのですから。

しかし、物質的な豊かさが心を満たしてはくれないことを、この国の豊かさの中に住む私たちは、よく知っています。多くの人が、有り余るほどの物に囲まれていながら、心を満たすものを見出せずに、何かを求めてさまよい、またいろいろなことを試しています。

与えられていることに対する感謝よりも、欠けていること、十分でないことへの不満や、もっと手に入れたいという欲望に、心が占領されてしまっている人は多いのです。長く続く経済の低迷は、お金に対する関心と執着をかえって増大させ、お金もうけと蓄財こそが人生の生きがいででもあるかのような錯覚に、多くの人を陥らせています。

聖書にある通り、実際のところ、「私たちは何一つにこの世に持って来なかったし、また何一つこの世から持って出ることも」できないのです。いくらお金を集めても、死ぬときにはすべて置いて行かなければなりません。お金がいのちをもたらさないように、死を乗り越えさせてもくれません。

満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。敬虔とは神を恐れ、神の前に正しく生きようとする態度です。それには感謝と充足感が伴います。神に生かされていること、神から与えられていることへの感謝と喜びを持って生きるとき、私たちはお金では手に入れることのできない「大きな利益を受ける道」を歩むことができます。

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目標、その先にあるもの

2004年09月

(私は)キリスト・イエスにおいて上に
召して下さる神の栄冠を得るために、
目標を目指して一心に走っているのです。

新約聖書 ピリピ人への手紙3章14節

多くの感動的な場面を私たちの記憶に刻んで、アテネオリンピックは終わりました。一瞬のために全神経を集中し、栄冠に向かって力を尽くす競技者たちの姿には、見る者の心を捉え、動かす何かがありました。

「今月のことば」は宣教者パウロの手紙の一節です。彼の後半生(イエス・キリストに出会ってからの生涯)を貫く生き方を言い表わしています。彼には、生涯をかけて一心に目指して走る目標がありました。それは神から与えられたものでした。

彼の目標は栄光に満ちていました。すべての苦悩と労苦を喜びと感謝に変えるほどすばらしい栄冠(賞)でした。彼はそれを得ようと一心に走り続けたのです。そのような彼の姿もまた、見るものに感動を与えます。

打ち込むものがある人は幸せだ、とよく言われます。聖書によれば、すべての人には目指すべき目標があり、一心に走るべき走路があります。そして、それを走り切ったすべての者に栄冠(賞)が待っています。それはこの地上で受けるものではありません。地上で受けるものはみな、地上に残して行かなければなりません。メダルも勲章も巨万の富も大事業も、どんな称号もどんな記録も、みなこの地上に置いて行かなければなりません。

私たちの受ける栄冠(賞)は、天上で神より受けるものです。人の評価によるのでも、自分の評価によるのでもなく、神がその人の生涯を評価し、その走路を走り切った人に栄冠(賞)を授与してくださるのです。「よくやった。忠実な者よ。」と声をかけながら。

あなたは目標を目指して一心に走っておられますか。どんな栄冠を受けるのでしょう。

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冷たい水

2004年08月

遠い国からの良い消息は、
疲れた人への冷たい水のようだ。

旧約聖書 箴言25章25節

酷暑の夏、エアコンや扇風機に並んで飲み物が大盛況のようです。暑さに疲れ切った身体に一杯の「冷たい水」がどんなにかおいしく感じられ、また活力を与えてくれることでしょうか。

聖書の詩篇の一節に「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」とあります。聖書の背景になっている地域は日本と比べるとずいぶん湿度が低く、乾燥しています。のどの渇き方も違います。筆者自身「鹿が谷川の流れを慕いあえぐ」という表現が誇張でないことを、現地で実際に渇きを体験して初めて納得しました。のどが焼きついてひりひり痛むほどの渇きに、水を求めて文字通りあえぎました。

ようやくたどり着いた小さな集落に水場を見つけることができて本当に助かりました。詩篇の詩人の、神を求める心の渇きは、それになぞらえるほど激しいものでした。ちょうど、幼くして肉親と生き別れた中国残留孤児が、肉親を慕い求めて再会を切望するように、神に造られた人間のたましいは神を求めて慕いあえぐのです。

今月のことばにある「良い消息」は手元の英訳聖書では"good news"となっています。聖書に記されている「福音」はまさに良い知らせgood newsです。もう一歩も足が出ないと思われるほどに人生の旅路に疲れ果て、へたり込んでいる人にとって、「福音」こそはたましいの渇きをいやす一杯の「冷たい水」です。

イエス・キリストは目に見えない神を歴史のただ中で体現し、その愛と力を目に見える形で表しました。私たちはイエス・キリストを通して、日々の生活の中に今も働く神の愛と力を体験できます。渇いたたましいを生き返らせる「冷たい水」はいかがですか。

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大空を見上げてみよう

2004年07月

天は神の栄光を語り告げ、
大空は御手のわざを告げ知らせる。

旧約聖書 詩篇19篇1節

夜空を仰いで星空のロマンに思いを馳せる方もあるでしょう。日々の忙しさに、星空を仰ぐことなど思いつきもせず、空を仰ぐのはせいぜい雨具の心配をするか日焼けを気にする時だけ、などという方もあるかもしれません。

ダビデ王は、天を仰ぎ大空を見上げては、天がささやく声なき声、大空が告げる言葉なきメッセージを聴きました。天地は神によって造られ、しかも実にすばらしく造られたと。神は目に見えませんが、神に造られた天地万物が、神の存在とその偉大さを静かに、けれどもしっかりと指し示しているというのです。

確かに、私たち人間は古来、注意深く天地万物を観察することによって、そこに見事なまでの秩序と驚くほどの調和を見出してきたのです。今日、私たちの持つ知識と情報は膨大なものになっています。しかしそれでも、ほんの少しのことがわかって来たにしか過ぎません。わかればわかるほど、わからないことが増えて行くのかもしれません。

けれども、天地万物が一つにつながっていて、全体として秩序と調和を保っているということはわかっています。私たちはそこに、いろいろな法則を見つけ出し、また、それを上手に用いて生活に役立てて来ました。

半面、自分たちや環境を破壊する道具まで作り出して様々な苦痛と悲惨を生み出して来たのです。それは天地万物の創造者なる神を忘れ、あるいは否定し、造られた者としての、それも最もすばらしく造られたものとしての立場を見失って、おごり高ぶったからではないでしょうか。

今こそ私たちはもう一度天を仰ぎ、大空を見上げて、声なき声で語られる荘厳なメッセージ<創造主なる神は確かにおられる>に耳を傾けようではありませんか。

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本当に信頼できる人・・・自分を真に受け入れてくれる人

2004年05月

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

新約聖書 ヨハネの福音書7章38節

街のあちこちに若葉の輝きを見ることのできる美しい季節です。自然の持つみずみずしい生命力の躍動を感じます。私たちも、この季節のようなみずみずしい生命力を、心に持つことができたら、どんなにすばらしいことでしょうか。

この季節の生命感とは裏腹に、人は、真に自分を認めて受け入れてくれる誰かを求めて心に渇きを覚えます。現実は、自分を認めて受け入れてくれるどころか、むしろ別な人になることを要求し、また強いるのです。自分で自分を否定する人もいますが、それは、人に受け入れられたいという思いが、それほど強いものだということを示しているのです。

自分そのものが認められ受け入れられるとき、人は心の一番深いところで、平安と喜びを伴う満足を味わうことになります。それを求めるあまり、いろいろな「偽物」や「代用品」による疑似体験に甘んじることも起きて来ます。

また、私たちは本当に信頼できる誰かを求めて渇きます。現実は、たびたび裏切られ、人間不信を募らせることが多いのです。最近は、子供たちの安全を守るために、人を疑うことを優先する指導が、家庭や教育の場でさえ行われています。それほどこの時代の人間不信は深いのです。このような時代に生きる者でも、いや、生きるものだからこそますます、人は本当に信頼できる誰かを求めて渇きます。

自分だけは信頼できると思えるほどには自分を当てにできない人にも、親子や夫婦といった最も信頼できるはずの家族にさえ不信感を持ってしまっている人にも、イエス・キリストは呼びかけています。「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と。

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真理

2004年04月

もしあなたがたが、わたしのことばに留まるなら、
あなたがたは本当にわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、
真理はあなたがたを自由にします。

新約聖書 ヨハネの福音書8章31節

不確かな情報はいろいろな憶測や迷いを産み、混乱の元です。本当のことがわからないと、不安や恐れのために力強く行動することができません。ちょうど暗闇の中を動き回る時のようです。人生を貫く真理はあるのか、あるとしたら何なのか、それがわからなければ、人は自由に、確信をもって生きることはできないでしょう。

不安や恐れによって萎縮し、様々な憶測や人の意見に振り回されたり、縛られたりすることにならないでしょうか。もし本当のことを知ることができたら、私たちはどんなに自由で確信に満ちた生き方ができるようになることでしょうか。

イエス・キリストは、この世界には真理と言えるものがあって、人はそれを知ることができるばかりか、それによって生きることができると言います。彼がその真理を持っているというより、彼自身が真理そのものだと言います。教えが真理であるだけでなく、彼の人格と生涯が真理を現していると言うのです(ヨハネの福音書14章6節)。

「今月のことば」はイエス・キリストが弟子たちに語ったことばです。彼のことばをしっかりと心に留め、それによって生きるなら、その人は真理を知るようになると彼は言います。自分の生きる意味や目的は何なのか、自分はどこから来てどこへ行くのか、自分の生涯について本当のことを知るならば、私たちはあらゆる束縛(自縛も含めて)から解放されて、本当の自由の中を生きることができます。あなたもイエス・キリストのことばに耳を傾けてみませんか。

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苦難の中にある光

2004年03月

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現われるためです。

新約聖書 ヨハネの福音書 9章3節

この聖書のことばは、イエス・キリストが弟子たちの問いに答えて言われたことばです。その時、弟子たちはイエスにこう尋ねたのです。「先生。彼が盲目に生れついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか、その両親ですか。」

当の盲人を目の前にしての発言です。その方にとってどんなに情けないことばであったことでしょう。何の望みも慰めも与えられないばかりか、それまでに幾度となく味わって来たあの悲しみと憤りを、またしてもじっと耐えるしかなかったでしょう。

弟子たちとすれば、ふと足を止めて道端の盲人に静かに目を注ぐ師の思いを探ることばだったのでしょうか、あるいはまた、この盲人の気の毒ではあってもどうにもならない現実に対する、ある種の同情から出たことばだったのでしょうか。いずれにしても否定的な響きしか感じない、未来のないことばです。

同じ人物の、同じ現実を見ながら、イエスのことばは弟子たちのそれとは全く違ったものでした。まず、盲目で生れるということが誰かの罪の結果だという考え方を否定しました。

私たちは不幸の原因を自分たちの勝手な考えで簡単に決めつけてしまい、不幸の中で苦しんでいる人の苦しみを一層増すようなことをするのです。

次にイエスは苦しみのただ中にある人に向かって、驚くような希望に満ちた未来を提示します。苦難に満ちた今の状況は「神のわざが・・・現われるため」のものだと言うのです。困難も苦難も現実ですが、イエス・キリストはそのただ中でみわざをなさるのです。

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真実の愛

2004年02月

愛には恐れがありません。
全き愛は恐れを締め出します。

新約聖書 ヨハネの手紙第一 4章18節

「恐れ」で人は動きます。身の安全を思うからです。ですから「恐れ」は人を動かす手っ取り早い手段になります。卑怯な脅迫は論外としても、親が子を、夫が妻を(もちろん、逆もあるでしょうが)、先生が生徒を(これも逆が成り立つ時代です)、会社が社員を、国が国民を、等々、社会のあらゆる分野で、人を動かす手段として「恐れ」が使われています。

そのつもりでなくても、「恐れ」が動機になって何かをするということが私たちの日々の生活にはとても多いように思います。「恐れ」で人を動かせても、それによってなされた行為の質は高くはありません。

叱られるから、人に悪く言われるから、ひどい目に会うから、というのでする行為は愛や真実を伴いません。「恐れ」がなくなれば、行為もやみます。「恐れ」によって子供を管理する親が、子供から信頼と愛による行為を期待することは無理でしょう。

愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出しますから。しかし完全でない愛はかえって恐れを生み出します。愛されなくなったらどうしよう、自分は愛に値するだろうか、と考え始めるからです。

「愛し合う」関係の中で、かえって「恐れ」が生じ、それが利用されることさえあります。そのような関係は不安定で苦痛を伴います。しかし、完全な愛は人を自由にし、その人らしくします。ありのままでいられるからです。

そのような愛をご存知ですか。イエス・キリストを通して現された神の愛こそ、そのようなものです。神の「全き愛」をあなたもお受け取りになりませんか。

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だから進んでいける

2004年01月

あなたのみことばは、私の足のともしび、
私の道の光です。

旧約聖書 詩篇119篇105節

このことばは一昔前の恋文の一節ではありません。日々の歩みを導く神への信頼を歌った詩の一節です。神のことばに導かれる歩みの確かさと、そのように歩める日々の幸いが伝わって来ます。

いろいろなメディアからたえず流れ出る情報に戸惑い気味の人は少なくないでしょう。情報は必要です。しかし、本当に必要な情報が何なのか、信頼できる情報はどれなのかを見分けることは容易ではありません。

洪水のように押し寄せる情報に囲まれて、不安いっぱいで立ちすくむ人が案外多いのではないでしょうか。世界でたった一つの花として、自分であることの尊さを大切にしようとすればなおさら、誰かの意見や判断に安易に乗るわけには行かず、かと言って自分で決断できるほど確かな未来への見通しもない。

たとい心に決めたとしても、確かな声で励まされたり保証されたりしなければ、なかなか足が前に出ないのです。目まぐるしく変わる今の世の中で、自分で道を選び取ることは、実際、相当難しいことではないでしょうか。

聖書のことばから響いてくる信頼は、きのうきょうのことではありません。継続的な信頼関係を指し示しています。道を歩むこと、日々を生きることは継続です。一歩一歩進んで行くのです。その一歩一歩が確かな拠り所に支えられたものでしたら、何と幸いなことでしょうか。

神のことばである聖書は、単なる宗教書でも教養書でもなく、情報時代のきょうを生きる私たちの足元を照らし、確かな歩みを支える光です。

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知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
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