浦安聖約キリスト教会

神の子が現れた日

2005年12月

神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

新約聖書 ヨハネの手紙第一 3章8節

いったい日本はどうなってしまったのだろうと嘆く言葉にも、力がこもらなくなってしまいそうなほど、次々と凶悪でわけのわからない事件が起こるこの頃、次代への不安は募るばかりです。

確かに時代は悪くなっているように見えますが、実際は、いつの時代にも悪の種は蒔かれ、根を張り、はびこっていたのです。凶悪事件も残虐行為も、今に始まったことではありません。人のいる限り、そこには悪もありました。何千年にもわたって記された聖書の記述を読むと、人は人格面、道徳面では、昔も今も変わっていないようです。人間は自分たちの垂れ流す悪によって苦しみ続けて来たのです。

聖書は人の悪の背後に悪魔の働きがあることを教えています。目には見えませんが神がおられるように、悪魔も存在し、人の心に働きかけて悪に誘い、悪を行わせているのです。悪魔は人を欺いて神に逆らわせ、神との良い関係を失わせてしまうことに成功したのです。悪の問題の根本的な解決のためには、そのような「悪魔のしわざを打ちこわす」必要があります。「神の子が現れたのは」実にそのためだったと「今月のことば」は告げるのです。

クリスマスの主人公、神の子イエス・キリストは、悪魔の支配下で悪につながれ、苦しみうめく人々を解放し、悪に打ち勝ち善を行う者とするために、人となってこの世界に来られました。彼は一度も罪(神への反逆)を犯したことがなく、悪に打ち勝ったばかりか、私たちの罪を身代りに負って十字架にかかり、罪の赦しの道を開いてくださいました。そして、ご自分に拠り頼む人々に悪に打ち勝つ力をくださるのです。

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そこにいます神

2005年11月

確かに、神は私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

新約聖書 使徒の働き17章27~28節

多くの人は、日頃、神のことなど特に思うこともなく、日を過ごしています。神は自分とは直接関係ない存在だと思っているようです。要するに、いてもいなくてもどちらでもよい存在なのです。もっとも、たとい神のことを考えたとしても、実際のところ、まるで無色無臭の気体のようにつかみどころがなく、何一つ確かなことが言えないのではないでしょうか。

「今月のことば」は、パウロという伝道者が、アテネのアレオパゴスという集会場で、そこに集まった特に哲学者や思想家たちを中心とする当時のアテネ市民を前に語ったことばです。彼によれば「神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられない」方で、まさに、そこにおられる方、呼べば答える方なのです。それどころか、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在している」のだと言うのです。

聖書は、人間が神を作った(創作した)のではなく、神が人間を造り、人間のために必要な入れ物としての地球を、いや、宇宙を、その全能の御力と英知によってすばらしくお造りになり、またそれを保っておられると告げています。

「神の中に存在している」私たちの頭の中に、神が納まるはずがありません。私たちに神がわからないのは、神が大き過ぎるからです。私たちの頭の中にも、この世界の中にも納まらないほど大きい方だからなのです。私たちはそのような偉大な神の御手の中に日々生かされているのです。

そのことを知るとき、私たちはへりくだって神をあがめ、進んで感謝と賛美をおささげしようとします。それが礼拝です。礼拝は人のなし得る最も尊い行為と言えるでしょう。ともに造り主の神を礼拝しましょう。

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信仰によって

2005年10月

あなたの信仰が、あなたを救ったのです。
安心して行きなさい。

新約聖書 ルカの福音書7章50節

イエス・キリストの公生涯を記録した「福音書」には、「今月のことば」と同じような表現が何度も出て来ます。いずれもイエス自身のことばとして記されています。このことばが語られている箇所では、その前に必ずイエスの力強いみわざがなされています。

困難な問題を抱えてイエスのもとに来た人が、イエスの愛と御力によってその問題を解決していただき、新しい歩みを始めようとする時、イエスはその人に向かって「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」と言われるのです。

福音書の記述を素直に読むと、そこに記された「救い」の出来事は、明らかにイエス自身によることがわかります。ですから、イエスは「わたしがあなたを救ったのです」と言えますし、そうすることによって、そこに起きた出来事が彼の愛と御力によるものだということを一層強く人々に印象付けることができたでしょう。それなのになぜイエスは、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」と言われるのでしょうか。

イエスはご自分の力を誇示することには関心がありません。むしろ一人でも多くの人が実際に「救い」を自分のものとして受け取ってほしいと望んでおられました。イエスの「救い」はいつでも差し出されていて、受け取りさえすればよい状態にあるのですが、信仰によってそれを受け取らない限り、言い換えると、イエスに心を開き、イエスを信頼し、イエスに拠り頼むことをしない限り、その人のものとはならないのです。水道の蛇口をひねるまでは水は出ませんし、コンセントにプラグを差し込まなければ電力の恩恵を受けられません。

イエスは今日もあなたに向かって「救い」の手を伸べて招いておられます。「わたしのもとに来て救いを受け取りなさい」と。

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神に近づく秘訣

2005年09月

神に近づきなさい。
そうすれば、神はあなたがたに
近づいてくださいます。

新約聖書 ヤコブの手紙4章8節

神に近づくとどうなるのでしょう。神もまた近づいてくださいます。あなたが神に一歩近づくと、神もまた一歩近づいてくださいます。二歩近づくと、二歩近づいてくださいます。あなたが近づけば近づくほど、神との距離は急速に縮まって行き、あなたにとって神は身近な存在となって行きます。神がどういうお方か、よくわかるようになります。神が確かにおられ、そして今も働いておられることがわかるようになります。神の語りかけを聞き取ることができるようになり、神の愛と真実を知るようになります。疑いと迷いは去り、確信と平安が日々の生活を潤すようになります。

反対のことも起きます。神から離れれば離れるほど神のことがわかりにくくなり、ますます心が神から離れ、そのうちに神のことがまったくわからなくなってしまいます。興味も関心もなくなって、神のことなどどうでもよいことになってしまいます。本当は、人にとって最も重要で根本的なことですのに、一番どうでもよいことになってしまうのです。

けれども、人がひとたび神に近づくことを決意し、一歩踏み出すならば神との距離は瞬く間に縮まって、神の御顔を仰ぎ見、神の御声を聞くようになるのです。なぜならば、神は私たちがご自身に近づくことを願っておられ、招いてさえいてくださるのです。自分を隠すことも良く見せることもいりません。ありのままで近づくとき、神も近づいてくださいます。神のもとに駆け込むなら、神も駆け寄って抱きとめてくださるでしょう。

どのようにして神に近づくのでしょうか。あなたの生活のただ中で神に近づくことができます。聖書を読み、神にお祈りください。必要を感じられたら教会をお訪ねください。ご一緒に神の御前に近づくことができたら幸いです。

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今日を精一杯生きる

2005年07月

だから、明日のための心配は無用です。
明日のことは明日が心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。

新約聖書 マタイの福音書6章34節

「世に心配の種は尽きまじ。」実際、心配なことばかりです。日本の明日は大丈夫なのでしょうか。環境は?教育は?経済は?年金は?治安は?国防は?心配の種はまさに尽きません。「いや、それどころじゃない。自分自身の明日のことが心配で落着かないし、夜も眠れない」とおっしゃる方もおありでしょう。

イエス・キリストは「明日のことは心配しなさんな。明日のことは明日自身が心配しますよ」と言われます。明日がどんな日になるのか、わかりません。だからこそ心配なのでしょうが、どうなるかわからない明日のために心配しても始まりません(明日の仕事の下調べや授業の予習は、当然「今日の務め」でしょう)。

今日という日は、明日のことを心配する日ではありません。それどころか、今日を真剣に生きようとすれば、明日のことを心配しているヒマなどないのです。「労苦はその日その日に十分ある」のですから。その日その日を最善に生きようとすれば、もう、それで「いっぱい、いっぱい」のはずなのです。明日になれば、その明日が今日となり、前の日と同じように精一杯の生き方を求められるのです。

自分に与えられたその日その日を大切に、そして真剣に生きて行くのは、誰にとっても大変です。ですから、明日のことを心配して今日を過ごすのではなく、与えられた今日という日を、喜びと感謝をもって精一杯生きて行くようにと、イエス・キリストは言われるのです。

実は、イエス・キリストこそ、私たちのために明日を備えてくださる方なのです。
その方に信頼して生きて行くとき、明日のための心配は無用だと知るのです。明日がどんな日か知らなくても、明日を備えてくださる方が誰かを知っているからです。

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そこにある備え

2005年06月

すなわち(神は)恵みをもって、天から雨を降らせ、
実りの季節を与え、食物と喜びとで、
あなたがたの心を満たしてくださったのです。

新約聖書 使徒の働き14章17節

「萌え出づる頃」も過ぎ、紫陽花の美しい季節を迎えました。南の高気圧が徐々に力を増し、北の高気圧に拮抗するようになって、日本列島付近に停滞前線が数珠のように延びると、じめじめしたうっとうしい季節の始まりです。太陽が最も日本に近づき、一年で一番日の長いこの時期、はっきりしない曇り空が、強烈な太陽の直撃を先延ばしにしてくれます。

この猶予期間の草木の成長ぶりは目を見張るものがあります。柔らかい雨に潤い、育まれてしっかりと茎や枝を伸ばし、葉を大きく茂らせて、やがて来る過酷な「太陽の季節」に備えます。そして何より田植えの季節です。豊かな水の供給に、田園地帯のあちこちに緑のじゅうたんが敷き広げられ、日増しにその色を深めて行きます。

梅雨はうっとうしい季節ですが、私たちの生活環境と食を支える大切な季節でもあります。後に続く夏の日照りに持ち堪えるために、しっかり降ってほしいものです。もっとも降り過ぎは困りますが。日本列島という小さな地域に、よくぞ、おあつらえ向きに梅雨という季節が備えられたものです。このこともまた、「(神が)恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、(私たちの)心を満たしてくださる」ことの一部なのでしょう。

何事をも思うままに扱えるかのように、己が力と知恵を誇る思い上がりを捨てて、「与えられている」という現実、「備えられている」という事実にもう一度目を開かせられて、謙虚さと感謝の気持ちを取り戻さないと、自分たちの誇るもので自分たちを滅ぼすという愚行のワナに足を取られ、深みにはまって行くことになるのではないでしょうか。

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神の前に富む者となるとは?

2005年05月

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。
なぜなら、いくら豊かな人でも、
その人のいのちは財産にあるのではないからです。

新約聖書 ルカの福音書12章15節

お金から一番縁遠い牧師家庭にも「資産運用の良いお話」が時折舞い込んで来ます。「金の地金、今がチャンスですよ。資産倍増間違いなし!」「資産のあるところにお電話したら?」お門違いもいいところです。「頼まれて、振る袖もなし、振りたくもなし」と言うところです。

お金持ちになりたがる人が増えているようです。「ハイリスク・ハイリターンの法則」を賢く使えば、あなたもお金持ちになれる!アメリカン・ドリームならぬジャパニーズ・ドリーム。ただし、すべて自己責任で!「人生、これマネーゲームなり」と言わんばかりの時代の風がどこからともなく吹いて来ます。

お金持ちになりたがる風はイエスの時代にも吹いていたようです。お金持ち志向に対して、注意と警戒を説いています。巨万の冨も腹の足しにはなっても、いのちの足しにはならないのです。どんな豊かな財産も、いのちを保証してはくれません。量の問題ではなく質の問題です。財産といのちは別物なのです。いのちは神の領域です。

イエスはたとえ話の中で、蓄えた財産に安住しようとする金持ちに、神の警告の声を聞かせます。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえの財産はいったいだれのものになるのか。」イエスはそのたとえ話を締めくくってこう言われました。「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこの通りです。」

人生はマネーゲームではありません。神は目的をもってあなたを造られました。あなたには生きる目的と使命があります。神の前に富む者とされましょう。

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主は私の羊飼い・・・主がともにおられる平安

2005年04月

主は私の羊飼い。 私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

旧約聖書 詩篇23篇1節

自然界にいのちの躍動を見る季節になりました。野原や田畑が緑系に衣替えを始めます。コンクリートの街並みにも緑の部分が増えて行きます。美しい季節です。

「今月のことば」は有名なダビデ王の詩の冒頭の一節です。緑に包まれたのどかな丘陵地帯が思い浮びます。満ち足りた平和な情景です。ダビデは平和な時代の王ではありません。むしろ乱世の王と言った方が良いでしょう。内に外に敵がいて、戦いを強いられるのです。安穏と過ごすことはできなかったのです。

しかし「今月のことば」からは、そのような緊張は伝わって来ません。実に平和で穏やかな光景しか思い浮かばないのです。その理由は「今月のことば」から明らかです。彼が「主」とお呼びする方、天地の造り主、全能の神が彼と共におられて、彼を守り導いてくださるからです。彼は「主」との親しい交わりの中に日々を過ごしていたのです。

実は「今月のことば」の数行後で、ダビデはこう歌っています。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられますから。」聖書に記された彼の生涯の記録を読むと、彼は実際に死の陰の谷を歩くような状況を何度も経験していることがわかります。そのような中で「主」が彼を守り、彼を助けてくださったのです。

「主が共にいてくださるから、私はわざわいを恐れない」と彼が言える十分な理由があったのです。彼の生涯は戦いの連続でしたが、それにもかかわらず、のどかな田園を行くような平和を、彼はいつも持っていたのです。 

ダビデの羊飼いである主は、あなたの羊飼いにもなってくださいます。あなたがどれほど激しい戦いの中を通らされようとも、あなたは平安のうちを歩むのです。

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ひとりで悩まないで

2005年03月

あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。

新約聖書 ペテロの手紙第一 5章7節

あなたは今、思い煩っておられませんか。 どうでも良いことで思い煩う人はいません。重大なこと、真剣なことだからこそ思い煩うのです。けれども残念ながら、思い煩いはエネルギーを消耗するだけで、事態を変えてはくれませんし、疲れのほかは何も生み出しません。 眠れなくなったり、健康を損ねたりする場合もあります。そうとわかっていても、気がつくと思い煩いの泥沼にはまり込んでしまうのが、私たちの現実なのかも知れません。

私たちはいろいろな願いを抱き、目標を定め、計画を立て、予定を組みます。しかし、なかなか思うようには行きません。私たちは未来に手を伸ばすことはできませんし、過去に舞い戻ることもできません。それどころか現在のことでさえ、自分の思い通りにコントロールできていないのです。
自分の願うように、人は動いてくれません。それどころか、反発したり、反抗したり、妨害したりします。それでも何とかしたい、何とかしなければ、と思うところに思い煩いの発生源があるのではないでしょうか。

聖書は、あなたの思い煩いをいっさい神にゆだねるようにと勧めています。自分ではどうにもならないことを何とかしようとするのをやめて、神にお任せしなさい。あなたのことを心配してくださる神がおられるのだから、と言うのです。

天地の造り主なる神が、あなたのことを本当に心配して下さっています。その方はあなたの最善が何かをご存知で、しかも全能者です。何一つできないことはありません。過去も、現在も、未来も、御手の中に収めておられます。その方に信頼し、おゆだねするとき、あなたは思い煩いから解放され、平安が来ます。

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生きるための原動力

2005年02月

人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つのことばによる。

新約聖書 マタイの福音書 4章4節

「人はパンだけで生きるのではない、とはどういう意味でしょうか。」という、あるミッションスクールの試験問題の回答の中に、「その通り。バターもジャムもいる」というのがあったそうです。御名答!と言いたいところですね。

このようなほほえましい誤解は別としても、このことばはいろいろに誤解されているように思います。人間は考えたり論じたり、教えたり、教えられたり、物を創り出したりできる唯一の存在なのですから、ただ食べて暮らすだけの生き方をして良いはずはありません。

けれども、毎日仕事に励み、社会的な活動に参加し、また社会の発展に貢献するような働きをしていたとしても、もしそれらが、結局は肉体の糧だけに支えられているのなら、「パンだけで生きている」ことにほかなりません。「神の口から出る一つ一つのことば」に支えられ導かれて初めて、人は本当に「生きる」のです。

聖書は人が何者なのかを教えています。人の生きる意味や目的も語っています。世界の中での位置付けも役割も教えてくれているのです。聖書を通して語られる神のことばによらなければ、人はまるで何の説明書もなしに複雑で巨大な機械を操作し管理するように求められている人のようです。ただ忙しく動き回るだけで、もし ひとたび歯車が狂いでもしたら、どうしたら良いかわからずに途方にくれてしまうのです。

聖書を通して語られる神のことばは、私たちにいのちを与え、また成長させる糧 であり、日々力強く生きて行くためのエネルギー源でもあります。また神のことばに耳を傾けることによって、神と人格的に交わることができ、生きる喜びや平安を味わうことができます。肉体の糧も当然必要ですが、神のことばという糧も必要なのです。

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人生の原点

2005年01月

神こそ、わが岩。わが救い。
わがやぐら。
私は決して揺るがされない。

旧約聖書 詩篇62篇2節

個性を大事にすることの大切さが語られるようになってから、自己主張こそが成功の鍵のように言われるようになりました。自分であること、自分色、自分をほめることが価値と意味を創り出すものとなりました。価値観の多様性、あれも良し、これも良し、みんな良しの世界が広がりました。

そこには絶対的な、不変の真理などというものは居場所を見つけることができなくなりました。すべては変わるもの、ある時代、ある部分にだけ通用するものとなりました。その時その時、うまく行けば良いという生き方しかできなくなってしまったのです。

ところが実際は、どう生きることが自分らしい生き方なのか、本当の自分色は何色なのか、今の自分の生き方で本当に良いのだろうか、そのような疑問がたえず付きまとうのです。どうしても回りを見まわします。他の人の生き方が気になります。自分の生き方に自信を持てません。つい合わせてしまいます。考えがぐるぐる回るだけですから、考えることをやめてしまいます。

本気で自分らしく生きることは大変なことだと思うようになります。大変どころか、そもそも答えのない問題を解くようなものだと感じるようになるのです。どうしてでしょうか。真理や、絶対や、不変のものさしを失ってしまったからです。いや、投げ捨ててしまったのです。ですから「自分」がわからなくなってしまったのです。だから不安がこの世代に浸透しているのです。

真理はあります。絶対のものさしはあります。世の中がどんなに変っても変らないもの、いや、変らない方がおられます。まさに「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら」です。神はあなたの人生の原点です。神を知るとき、あなたは「自分」を知るでしょう。

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知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
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