浦安聖約キリスト教会

神からの贈り物

2006年12月

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

新約聖書 ヨハネの福音書3章16節

あの人(子)を喜ばせるには何を贈ろうかとあれこれ思い巡らしている人、お財布と相談しながら頭を悩ませている人、今年はどんなプレゼントがもらえるのかとワクワクしながら待っている人、これからおねだりしようと作戦を練っている人、さまざまです。贈り物の季節がやって来ました。

贈り物は人を喜ばせます。もらう人だけではありません。あげる人にとっても喜びです。贈り物をもらって喜ぶ顔を見て喜ぶのです。贈り物は人の心を和ませ、結びつけます。贈り物は贈り手の愛を表わしているからです。

クリスマスになぜ贈り物をするのでしょう。それはクリスマスは神が私たちにすばらしい贈り物をくださった日だからです。神の贈り物、それは神のひとり子イエス・キリストです。その日、神の御子は人としてこの世に生まれました。

イエス・キリストの生涯は、贈り主である神の存在を、目に見える形で示すものでした。イエス・キリストを通して神の栄光が現されました。神がひとり子を世にお遣わしになったのは、世(=世の人)に対するご自身の愛を表わすためでした。

イエス・キリストは福音書に記されている通り、弱い者、苦しむ者を助け、疲れた者、気落ちする者を力づけ、恐れる者には平安を、絶望する者には希望をお与えになりました。そして何よりも、人間の一番大きな問題である罪と死の問題に根本的な解決を与えるために十字架にかかり、神のさばきを身に受けて身代わりの死を遂げ、私たちひとりひとりに対する神の愛を身をもってお示しになりました。

あなたも神からの愛の贈り物、イエス・キリストをお受け取りになりませんか。

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神は愛なり

2006年11月

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、
いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

新約聖書 ヨハネの手紙 第一 4章9節

人間は文字通り、人の間に生きるものです。人との関わりを持たないで生きて行くことはできません。人は孤独に耐えられないのです。それなのに、人との関わりを避けて生きる人がいます。ひとりでいる孤独の方が、人の中にいて味わう孤独よりも、まだましだからなのかもしれません。

実際、私たちは人と関わる中で、理解し合い受け入れ合うことの難しさ、理解されないこと本当には受け入れられていないことの寂しさや悲しさを、幾度も味わわされます。

あなたは、この世界には目に見えない神がおられて、あなたのことを知っておられ、心にかけていてくださるということをご存知ですか。そのようなことをすぐに信じるわけにはいかないとお考えかもしれませんが、神はただの観念や思索の産物ではないので、あなたと人格的な交わりを持つことができます。

神はそのひとり子イエス・キリストをこの世界に遣わし、ご自身の愛を目に見える形でお示しになりました。今から約二千年前に、歴史のただ中で起きたことです。新約聖書の福音書がその記録です。

イエス・キリストは神のもとから来られた方として、ことばと行いをもって驚くべき神の愛と御力をお示しになりましたが、人はイエス・キリストを拒み、死罪に定め、十字架にかけたのです。しかしそれこそ、神に背き、神を無視する人の罪を身代わりに負っての死だったのです。イエス・キリストの死によって、私たちは新しいいのちを受け、神の愛の中を生きる者とされるのです。

あなたも神に愛されています。神の愛をお受け取りになりませんか。

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苦難の中にある助け

2006年10月

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。

旧約聖書 詩篇 50篇15節

「おぼれる者はわらをもつかむ」ということわざがあります。「非常に困難な状況にいる者は、何の頼りにもならないものでも頼ろうとする」という意味だと広辞苑にあります。宗教はそのような意味での「わら」のようなものだと考えている人に時々出会います。むろん、そのような人にとってはキリスト教も例外ではありません。

「苦しいときの神頼み」ということわざもあります。広辞苑には「ふだん神を拝まない者が、何か災難にあったり困り抜いたりする時にだけ、神のみょう冥じょ助(助け)を祈ること」とあります。そのような信仰を嫌い軽蔑する人は多くいます。そんな身勝手な生き方を自分はしたくないと考える人は少なくないでしょう。

本当の神がいるなら、そんないい加減な生き方を許すはずがないと考える人もいるでしょう。苦しみにあったからといって神頼みに走るのではなく、力を尽くして困難に立ち向かい、それを乗り越えてこそ人生の醍醐味を味わい得るのだと考える人もいるに違いありません。

とにもかくにも、聖書の神は私たちに呼びかけます。「苦難の日にはわたしを呼べ」と。この愛に満ちた神の呼びかけに応える時、次の三つのことがあなたに起こります。

(1)あなたは苦難から助け出されます。
(2)あなたは、あなたを苦難の中から救い出してくださった神が、「苦しい時の神」ではなく、いつでもあなたの神であることを知ります。
(3)あなたは、神に生かされている者であることを知り、その神をあがめ、神に感謝し、へりくだって神とともに歩むことを人生の主眼とするようになります。

誰も苦難を望みはしません。しかし、誰にでも苦難はやって来ます。その時こそ、あなたがあなた自身の神を知り、神に立ち返る絶好の機会を与えられているのです。

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帰る場所がある

2006年09月

私たちの神に帰れ。
豊かに赦してくださるから。

旧約聖書 イザヤ書 55章7節

家路を急ぎながら、帰る場所のある幸いをふと思います。帰る場所、それは家であったり、故郷であったり、国であったり、自分がそこから出て来た場所なのですが、そこには帰れない、帰れても歓迎されない、帰りたくないという場合もあります。

帰る場所のない人のさびしさを思います。甘えを退け、強く生きて行くのでしょうが、文字通りの意味を越えて帰る場所は必要です。自分の居場所、心の置き所です。肩の荷を降ろし、普段着を着てくつろげる場所、自分らしい自分を取りもどせる場所です。人はみな、そのような場所を必要としています。

自分の居場所、心の置き所としての帰る場所のある人は本当に幸いです。そこで自分を取りもどし、生きる力や喜びを得るからです。帰る場所はあっても、そこに自分の居場所がないなら、その人は本当の意味での帰る場所を持っていないのです。

「今月のことば」は「私たちの神に帰れ」と呼びかけています。そこが私たちの出て来た場所だと言うのです。そこに帰れば自分の出自がわかります。自分が誰で、何で存在するのかがわかります。そこでは一切の虚飾を捨てて本来の自分を取りもどすことができ、たましいの自由と平安を得ます。

イエス・キリストはたとえ話の中で、財産を譲り受けるや親元を離れ、勝手気ままに日を過ごし、無一文となり、孤独と飢えの中で遂に目覚めて、決然と親元に帰って来た息子を諸手を挙げて迎え、その帰りを喜び祝う父親の姿に愛の神を描きました。

神はあなたの帰りを待ちわび、諸手を挙げて迎え入れてくださいます。そこにあなたの帰る場所、安心とくつろぎの場所があります。

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本当の自分を見るために

2006年07月

神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、
魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、
心のいろいろな考えやはかり事を判別することができます。

新約聖書 ヘブル人への手紙4章12節

十年一昔と言われた時代は一昔、いや、はるか昔の感があります。時代の潮流は激しく変わり、時代をリードすることば、時代を映すことばも絶えず変わります。

聖書は古い本です。最初の書「創世記」から、最後の書「黙示録」が書かれるまで千年を優に超える時が流れ、それからさらに二千年近い時が過ぎました。その間、より古く、より信頼性の高い写本(断片の場合が多いのですが)が発見されるたびに肉筆原典に近づけるための聖書本文の改訂がこまめに重ねられて来ましたが、時代の思潮に合わせて内容を変えるような改訂は一度もなされたことはありません。そういう意味でも、聖書は時代を経た古い本なのです。

また、聖書はいつの時代も疑いの目で見られ、反対を受け、攻撃され、撲滅キャンペーンの対象にさえされて来ました。にもかかわらず、聖書は生き延びたばかりか、時代を変えた多くの人々に霊感を与え、絶望の中にある人々に確かな希望と生きる力を与えて来ました。

聖書は時代を超えた真理の書です。

私たちは自分のことは自分が一番よく知っていると思いがちですが、実際のところ、私たちは自分というものがよくわかっていないことに気づかされることがあります。自分がしたいと望むことができなかったり、したくないと思うことをしてしまったり、自分が何者かであるかのように思えたり、逆に無価値なように思えたりします。自分の本当の姿を知るにはどうしたらよいのでしょうか。

聖書はあなたの心の深みを照らし出す光です。等身大の本当のあなたを映し出してくれるのです。ぜひ聖書を手にとってお読みになってください。

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勝利ある人生のために

2006年06月

聖書はすべて、神の霊感によるもので、
教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

新約聖書 テモテへの手紙第二 3章16節

スポーツ界で成功した人はみな、それぞれに厳しい練習や鍛錬に耐え抜いた人たちです。その「物語」はしばしば感動的です。またそれには、多くの場合、有能な監督やコーチ、優秀なトレーナーが登場します。彼らは選手/競技者の記録や成績の向上のために一丸となって尽力します。そのようなサポートなしに、どんな好記録も好成績も、おそらくなかったに違いありません。

私たちの人生にも「有能な監督やコーチ、優秀なトレーナー」が必要ではないでしょうか。ひとりだけで奮闘努力することを美学と心得る人もあるでしょうが、多くの人は「人生論」を手にし、「指南書」を求めます。現代のように多様かつ複雑で変化が早く、競争の激しい時代に生きるには、自分専属の「有能な監督やコーチ、優秀なトレーナー」がいてくれたらどんなに心強いことでしょう。

実は聖書こそ、そのような存在なのです。「今月のことば」は、聖書が「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」だと言っています。聖書の語ることに耳を傾け、心に留めるなら、遂には勝利の栄冠を勝ち得るのです。「聖書はすべて、神の霊感によるもの」、直訳すれば「神の息吹によるもの」、「神のことば」そのものだからです。

スポーツ選手が、監督やコーチやトレーナーを信じて、時には厳し過ぎると思うような指示や要求にも従うように、もしあなたが、聖書を通して語られる神のことばに耳を傾け、信頼して従うなら、あなたは勝利ある人生を歩むことになります。神はあなただけのメニューであなたを訓練し、あなた用の矯正プログラムであなたを矯正して、義の実を結ぶ者へと変えてくださるからです。

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五月病の処方箋

2006年05月

人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。

旧約聖書 箴言16章9節

筆者が学生の頃、「五月病」という「病気」がはやりました。最近はあまり耳にしなくなりましたが、はたして「五月病」はなくなったのでしょうか。

広辞苑を引いてみました。「五月病:4月に入った学生や社員などに、5月頃しばしば現れる神経症的な状態」とあります。

先にある栄光のゴールを目指して一心に努力し、辛苦の果てに遂にそれを得たとき、あれほどにあこがれていたものの実態を目にして、そのギャップに打ちのめされ、やる気をなくしてしまうということが起きます。また、とにかく手に入れようと全力を尽くして来たものを得たことによって、目指す目標がなくなり、頑張る動機付けを失って無気力な生活に陥ってしまうということが起きます。

目標の到達自体が目的になってしまうと、それに到達した瞬間に目標がなくなり、生き生きとした日々はそこで終わります。生きる情熱や活力を得るには、新たな目標を設定し、それに向かって自分を奮い立たせていかなければなりません。生涯、前向きに力強く生きて行くには、このパターンを絶えず繰り返していかなければなりません。顔の前に吊るされたニンジンを追う馬の姿に重ねるのは無茶ですが・・・

生きる目標をどこに設定するかが重要なポイントです。人生の終局に最終的な目標を置き、たえずそれを目指しながら、その過程で生じる、その時々の必要に応じた目標をたどり進むなら、動機付けも活力源も失わずに歩み続けることができます。

真の愛と目的をもってあなたを造り、生かしておられる神の導きと備えを信じ委ねるとき、あなたは消えることのない目標に向かって力強く歩んで行けるのです。

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死を越える希望

2006年04月

わたしはよみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

新約聖書 ヨハネの福音書11章25節

イースターは、まだあまり日本では知られていないようです。イエス・キリストの復活を記念し、祝う日です。復活祭とも言います。キリスト教のお祭りだから自分には関係ないと思う方もいるでしょう。復活と聞いただけで、この科学の時代にばかばかしい、と思う方が結構多いのかもしれません。

ですが、まさに「事実は小説よりも奇なり」です。キリストの復活の事実性は歴史が証言しています。キリストの弟子たちは、キリストの十字架の死と埋葬の目撃者であると同時に、空虚な墓の目撃者でもありました。また、よみがえったキリストに出会い、言葉を交わしさえしたのです。

もっとも、彼らも初めは信じられず、キリストからその不信仰ぶりを責められたほどでした。復活(蘇生ではない)などそれまで一度もなかったのです。昔の人にとっても、今の人と同じように信じがたいことでした。

しかし、キリストが復活して今も生きていると確信できたとき、弟子たちに大きな変化が起きました。悲しみは湧き上がる喜びに、絶望は輝く希望に、恐れは確信に満ちた大胆さと自由さに変えられました。

そればかりか、かつては互いに張り合ったり牽制し合ったりしていた彼らは互いに愛し合い、心を一つにしてキリストのために仕え始めたのです。彼らはいのちを惜しまず、困難な宣教に喜んで出て行き、世界中にキリストのことを言い広めたのです。それは今日も続けられています。

「あなたの罪の身代わりになって十字架で死んだキリストは、よみがえって今も生きておられ、あなたに永遠のいのちを与え、新しく生まれさせてくださるお方です」というメッセージが、世界中、至る所で語られ続けています。あなたもどうぞ受け取ってください。

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本当の勝ち組

2006年03月

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

新約聖書 ローマ人への手紙 8章37節

成功レースのトップ集団と見られていた人たちのうちにつまずく者が出て、その「成功」の実態が明らかにされて来ました。それを機に、「勝ち組」「負け組」の再評価や、社会の貧富両極化を加速しているように見える「改革」のあり方に対する見直しを求める声も聞こえて来ます。

あの手この手の財テクによる蓄財がもてはやされ、財を成し富を操ることこそ、人生の勝利ででもあるかのように考えられて来たことへの警鐘を聞く人は幸いです。

人生の勝利は、財を成すことでも、富を操ることでもないし、人のうらやむ優雅な生活をすることでも、何不自由ない老後の保証を得ることでもありません。そうではなくて、自分がどこから来てどこへ行くのかを知り、自分に与えられた道で、自分に与えられた務めに励み、それを危うくするあらゆる誘惑や試練に打ち勝って、神の前に誠実を全うすることにある、と聖書は教えています。

そのような生き方は決して容易ではありません。人はそれほど強くはないし、賢明でもないからです。「ローマ人への手紙」の著者パウロは、「私たちを愛してくださった方(神)によって」、はじめてそれが可能になると書いています。神に信頼し、拠り頼む者を、神は必ず守り、導き、助け、励ましてくださるからです。私たちは神の愛と御力に支えられて「圧倒的な勝利者」とならせていただけるのです。

富の多寡や暮らし向きは、人生の勝敗の尺度とはなりません。世の盛衰に合わせて浮き沈みする一時の栄華に惑わされず、目に見えない神に拠り頼むことによって、神の前にも人の前にも恥じることのない「勝利の人生」を歩ませていただきましょう。

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人として歩むべき道を歩もう

2006年02月

人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

旧約聖書 ミカ書6章8節

昨年の10月に突如明るみに出たマンションやホテルの耐震強度偽装問題は、日本社会を大きく揺さぶることになりました。専門的な能力と資格を持つ人たちが、その社会的責任の重さをわきまえずに、自分の利益や都合を優先して動くようになると社会がどうなるかを私たちは見させられました。同じようなことが様々な領域で行われているのではないかという疑念を否定できない悲しい現実がこの国の実情なのです。

今やこの国に蔓延しつつあるのは「もうけ主義」と「ご都合主義」です。すべてを自分の利益と都合によって計る世界、そこではいかにうまくやるかだけが問題なのです。何が正しいかではなく、どうしたらもうけるか、どうしたらうまく行くか、それが行動原理となってしまっているのです。

人が神に背を向けるとき、すべてが相対的なものとなります。そこには真の意味での絶対はありません。人が神を見失うとき、その歩むべき道を見失います。それどころか自分自身をも見失うのです。しかし、人が神と向き合うとき、初めて自分自身を取りもどし、自分の歩むべき道を見出します。

「今月のことば」は私たちに問いかけます。「人よ。何が良いことなのか」、「主(神)は何をあなたに求めておられるのか」と。そしてすぐさま明確な答えを提示してくれています。「それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと」なのです。

目に見えない神の前に、隠れているものは何一つありません。神を恐れ、神の前に誠実に生きること、それこそが人の歩むべき道なのです。

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力強く生きるために

2006年01月

あなたの口を大きくあけよ。
わたしが、それを満たそう。

旧約聖書 詩篇81篇10節

年が改まり、意気込みも新たにこの年の歩みを始められたことでしょう。「今月のことば」は、私が教会の元旦礼拝で語らせていただいた聖書のことばです。いわば私たちの教会の「今年のことば」でもあります。

イエス・キリストはマタイの福音書4章4節で、旧約聖書の申命記8章3節を引用し、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」ことを強調されました。パンで象徴される食物は、身体を養うことはできても、身体だけで成り立っているのでない人間が生きて行くには、「神のことば」が不可欠だと言われるのです。人の心、あるいは「たましい」と言っても良いかもしれませんが、それは「神のことば」によって生かされ、養われ、育まれ、活力を得るのです。

だからこそ、神は声を大にして私たちに呼びかけておられるのです。「あなたの口を大きくあけよ」と。私たちが口を大きくあけさえしたら、神は私たちが力強く生きて行くための糧を口いっぱいに満たしてくださると約束してくださっています。ちょうど母親が幼子に優しく呼びかけて、その口に食物を与えるように。

母親は、子の健やかな成長を願って、優しく、そして忍耐強く、繰り返します。「ほら、太郎ちゃん。お口を大きくあけて。あ~ん。」母親は幼子の口に無理やり食べ物を押し込むことをしません。子を愛しているからです。神もあなたに愛を込めて、優しく勧めておられます。「あなたの口を大きくあけよ」と。

あなたが心の開いて神のことば(聖書)を「食べ」始めると、あなたは生かされ、養われ、育まれ、活力を得ます。この年、ご一緒に聖書を「食べ」始めませんか。

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知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
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