浦安聖約キリスト教会

世を照らすまことの光

2007年12月

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
「やみが消え去り、まことの光がすでに輝いている。」

新約聖書 ヨハネの福音書 1章9節
新約聖書 ヨハネの手紙第一 2章8節

イエス・キリストは「すべての人を照らすまことの光」として世に来られました。2千年前のことです。それを記念して喜び祝うのがクリスマスです。

「まことの光」は「すでに」輝いています。「まことの光」に照らされる時、自分がどんな者かわかります。自分の生きる意味や目的がわかります。自分の歩く道が見えて来ます。その道は死で終わらない永遠の望みへと続きます。

「まことの光」は「すべての人」を照らします。文字通り「すべての人」をです。例外はありません。どんな深いやみの中に沈んでいる人も照らします。恐れは去り、不安は消え、空しさは取り除かれます。希望や喜びや平安が、それらに取って代わります。心のやみが消え去ったからです。

クリスマスの喜びは「まことの光」に照らされた喜びです。やみから解放された喜びです。いつまでも変わらない希望に生きる喜びです。ですからそれは、クリスマスだけの喜びではありません。毎日の喜びです。生涯の喜びです。

「まことの光」はあなたをも照らすために世に来られました。クリスマスがあなたにとって、その光に照らされる好機となりますように。
あなたのご来会を心から歓迎します。

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神を恐れよ!

2007年11月

神は侮られるような方ではありません。
人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(中略)
善を行うのに飽いてはいけません。
失望せずにいれば、時期が来て、
刈り取ることになります。

新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6章7、9節

老舗の銘菓が消費期限や賞味期限の表示を付け替えて売られていたことが発覚し、世間の厳しい批判を浴びました。何よりも「のれん」を大事にする老舗なのに、なぜあんなデタラメができたのだろうとあきれてしまいます。老舗なのに、ではなく、老舗だからこそ、だとしたら、事は一層深刻です。

似たような不正が次々と発覚していることからすると、あちらでも、こちらでも、同じような手口で、売れ残り解消作戦がなされているのかもしれません。消費期限や賞味期限の表示を見ても「これ、本当だろうか」とつい疑ってしまいます。老舗の「のれん」やブランド、また食品の安全性の表示まで信用できないとなると、私たちには判断の手がかりがなくなってしまいます。

先には中身と違う表示の肉が出回っていましたし、その前には耐震強度不足のマンションが合格品として売られていましたし、今や、人を欺いて儲けようとする身勝手が、世の中を覆っています。これは商業上のことだけではありません。自分や自分の立場を良く見せるための様々な「偽装」や「虚偽表示」が「工夫」や「知恵」としてまかり通っています。真実や誠実より自分の儲けや都合を優先する生き方から出てくる結果です。その根底には、すべてをご存知で、すべてを公正にお裁きになる真の神を無視する生き方があるのです。

神は決して侮られるお方ではありません。たとい人や世間は欺けても、神を欺くことはできません。一時の「もうけ」のために人間として大切なものを投げ捨ててしまってはなりません。忍耐をもって正義を貫くなら、神の報いは確かにあります。

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実を結ぶ生涯

2007年10月

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしに留まり、
わたしもその人の中に留まっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。

新約聖書 ヨハネの福音書 15章5節

人生は一度きりです。やり直しがききません。だから大切にしなきゃと思う人、自分の好きに生きなきゃ損だと思う人、どう生きたって大した違いはないのだからあくせくしたって仕方がないと考える人、中には、何のために生きるのかと虚しさに苦しむ人もいます。

教会を訪れたある若者に、○○さんは何のために生きておられるのですかと尋ねたところ、意外な答えが返ってきました。「子孫のためです。」彼はまだ結婚もしていませんでしたが、いろいろと考えた末の自分なりの答えだったのでしょう。

私たちは現に生きているわけですから、何かしら意味づけや目的の設定をします。そうしないでは生きられないのが人間です。それができなかったり、行き詰まってしまった人は、投げやりな生き方をして自分の人生を台無しにしたり、自分で自分の人生に幕を下ろしてしまうのです。

イエス・キリストは人の生涯は実を結ぶためにあると言います。それは世の中で成功し名を成すとか、財を成すとか、不朽の名作を生み出すことを意味しません。神の御子イエス・キリストに信頼し聞き従う日々の歩みを通して、神に造られ生かされた者としての自分に与えられた役割を果たすなら、それはいつまでも意義を失うことのない神の前に尊いものとなります。

人の生涯は、いかにその時代に貢献したかではなく、いかに神の愛と恵みに応答して生きたかによって評価されるのです。一度しかないから貴重なのではなく、かけがえのない存在として神に造られ生かされているから貴重なのです。

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老いるいのち、老いないいのち

2007年09月

ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、
内なる人は日々新たにされています。

新約聖書 コリント人への手紙第二 4章16節

老いは生・老・病・死の四苦に、生に続いて挙げられています。確かに老いは、いのちあるすべてのものが行くべき道です。忘れることはできても避けることはできません。加齢とともに体力や美貌は衰えます。なかなか受け入れにくい現実です。

老いと戦うべきだと考える人もおられるでしょう。しかし、老いの進度を鈍らせても老いを克服する人はいないのです。老いは必ずやって来ます。受け入れるしかありません。

筆者自身も老いを自覚する年齢になりました。記憶力や体力の急な衰えを感じ始めたときはショックでした。その現実をなかなか受け入れられませんでした。しかし現実は現実です。嘆いたり、気落ちしていても仕方ありません。受け入れる中で、必要なこと、可能なことを、前向きに、精一杯やって行こうと考えるようになりました。

「今月のことば」は伝道者パウロが書いた手紙の一節です。かつてのように過酷なまでの宣教旅行を精力的にこなす年齢ではなくなっていたと思われます。人並みすぐれた能力を与えられた彼でしたが「衰え」の自覚を素直に言い表しています。彼はたとい「外なる人」が衰えても「内なる人」は「日々新にされている」ことを承知していました。

彼の中には老いるどころか「日々新にされる」「内なる人」という現実があったのです。かつては大のキリスト教嫌いで教会迫害の急先鋒だった彼が、ダマスコ途上で復活の主イエスに出会い、神の御子・救い主と信じて以来、彼のうちに働き続ける永遠のいのちの現実です。それが、彼に老いのただ中でなお「日々新にされる」確かな希望を与え続けているのです。

老いて死に至るいのちには望みはありません。イエス・キリストがくださる永遠のいのちの望みをあなたもお受けになりませんか。

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最高に価値あるもの

2007年07月

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。
人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、
持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

新約聖書 マタイの福音書13章44節

持ち物を全部売り払ってでも手に入れたいものがありますか。持ち物全部を売り払うということは文字通り生活をかけることになります。いのちをかけると言っても言い過ぎではないでしょう。容易にできることではありません。

もし、それほどの価値があると認めるものがあるなら、求めずにはいられないでしょう。逆に、それほどの価値のあるものなどありはしない、結局のところ「持ち物全部」に優るものなどないのだとしたら、何ともさびしい話です。たとい何兆という使い放題の財産を持っていたとしても、その生涯は虚しいものではないでしょうか。

イエス・キリストは、持ち物全部を売り払ってでも手に入れるべきものがこの世にはある、「天の御国」こそそれだと言われます。畑に隠された宝を見つけた農夫は全財産をはたいてその畑を手に入れました。農夫にとって、その宝こそ人生最高の価値となり、それを見出したときから彼の「大喜び」の日々が始まったのです。

イエス・キリストは「天の御国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と人々に呼びかけました。福音書を読むと、イエス・キリストこそが福音(良い知らせ)そのものであり、イエス・キリストによって「天の御国」がこの世界に到来していることがわかります。イエス・キリストを通して表わされた神の愛を受け入れるとき、あなたの生涯にも「天の御国」は実現します。農夫が宝を見つけたとき、畑はただの畑でなくなりました。何にも替えがたい大切なものとなりました。

イエス・キリストとの出会いはあなたの生涯をそのように変えてしまいます。無味乾燥な日々が喜びに満ちた尊い日々として輝き出すことでしょう。

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心の渇きをいやす水

2007年06月

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、
決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人の内で泉となり、
永遠のいのちへの水が湧き出ます。

新約聖書 ヨハネの福音書 4章14節

「梅雨」で何を連想しますか。「かさ」「長靴」「カビ」「豪雨」「洗濯物」「あじさい」・・・言葉ではなく、気分を連想する方もいるでしょう。うっとうしさ、ゆううつ。中には梅雨が好きという方もいるかもしれませんが、一般的にはあまり人気のない季節だと思います。この季節に古傷がうずき出す方にとっては、なおさらでしょう。

晴れ間の恋しい梅雨時ですが、植物の成長のためには、また夏の日照りに備えるためにも、カラ梅雨では困ります。水不足は文字通り死活問題ですから。

私たちの身体が水なしでは生きられないように、私たちの心も、あるいはたましいも、「水」なしでは生きて行けません。私たちの心が渇水状態になると私たちは生きる力を失います。生きてはいても、喜びも希望もない、ただ生きている、というだけの日を過ごすことになります。それさえ煩わしくなると、自ら生きることをやめてしまうかもしれません。

私たちのたましいは本当は生きたいのです。死を望むのは、生きることに絶望したからです。私たちは生きることを望むようにできているのです。しかも、生き生きと生きることをです。ですから、身体が水を求めるように、たましいも叫んでいます。「水をくれ!」「いのちの水をくれ!」「私を生かしてくれ!」と。

イエス・キリストは「いのちの水」の供給者としてご自身を現されました。ご自分の提供する「水」を飲む者は決して渇くことがなく、その人の内で泉となって湧き出すと約束されました。「いのちの水」はだれにでも、イエス・キリストを信じるすべての人に、無償で提供されています。あなたもお飲みになりませんか。

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志を大切に!

2007年05月

神は、みこころのままに、
あなた方のうちに働いて志を立てさせ、
事を行わせてくださるのです。

新約聖書 ピリピ人への手紙 2章13節

風薫る5月。新しい生活環境や生活リズムに慣れて来て、どうやら軌道に乗ったかなと感じている方も多いのではないでしょうか。中にはゴールデン・ウィークにようやく一息つけてホッとされた方もおられるでしょう。逆に張っていた気が緩んで、かえってドッと疲れを感じてしまったという方もおられるかもしれません。新たに得た志に心燃やし、喜々として日々を送っておられる方もおありでしょう。

人が志を得る経緯はさまざまだと思います。立身出世のことばのとおり、世に名を成したいと願う人、とにかく財を成したいと願う人、人の勧めに従った人、時流に乗っただけという人、何となく成り行きでという人、長い間心に抱いてきた思いが熟してという人、いろいろ考え抜いた末にこれしかないと考えるに至った人等々。

「今月のことば」は、神は人に働きかけて志を立てさせるお方だと告げています。目に見えない神のご支配の中で、人はそれと自覚はしないにしても、志を得て立ち上がるということが起こるのです。確かに、人が志を堅くし、一事を成し遂げる「物語」には、何か神秘的な、あるいは摂理的なもの、人の思いや意志を超えた何かがあるように感じます。

批判や反対に耐え、困難を乗り越えて事を成し遂げる過程は、その人の努力や才能だけで説明し尽せないものがあります。偶然に帰することも無理があります。神は人に「志を立てさせ」るだけでなく「事を行わせてくださる」のです。ですから、得た志を大切にし、忍耐強く取り組み続けて行こうではありませんか。

神はあなたを無意味に、無計画にこの世に生まれさせなさいませんでした。あなたに成し遂げてほしいご計画を持っておられるのです。

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死は勝利にのまれた!

2007年04月

神は、私たちの主イエス・キリストによって、
私たちに勝利を与えてくださいました。

新約聖書 コリント人への手紙 第一 15章57節

私たちの最強の敵は死です。死はすべての人を打ち倒し、呑み込んで行きます。死に敢然と立ち向かう人はいます。しかし、ついには死の力に圧倒され、打ち据えられて退けられてしまうのです。冷徹な暴君の如き死の高笑いを私たちは聞き続けなければならないのでしょうか。

そうではありません。イエス・キリストが死に打ち勝ち、死の支配から私たちを解放して下さったからです。イエス・キリスト自身、十字架にかけられて死にましたが、三日目によみがえることによって、死の支配を無力にしたのです。死をこの世からなくすことによってではなく、死んで復活することによって、死に打ち勝たれたのです。そして、その勝利を、彼を信じるすべての人にお与えになるとお約束くださいました。

聖書は「死は勝利にのまれた」と高らかに宣言します。死は復活のいのちに呑み込まれてしまったのです。死が専制君主として君臨する時代はイエス・キリストの復活とともに終わりました。私たちはもはや、死の恐怖に縛られながら生きなくてよいのです。死の手から逃れようと必死になることもないのです。私たちが地上での務めを果たし終えたとき、神は私たちを天に召してくださいます。

復活は死ぬことによって初めて起こり得ます。ひと度は死ななければなりません。しかし死んで復活したならば、もはや再び死ぬことはないのです。死は勝利にのまれてしまったのです。
イエス・キリストを信じる者に約束された復活の希望を、あなたもお受け取りになりませんか。

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どんな時にも頼れることば

2007年03月

この天地は滅び去ります。
しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

新約聖書 マタイの福音書 24章35節

近年、世界の各地で異常気象が起きています。「例年のように」とか「平年どおり」が取り立ててありがたく思われる時代になりつつあるのでしょうか。

記録的な暖冬は地球温暖化の現実を文字通り肌で感じさせてくれます。温暖化の進度はこれまで考えられていたよりもずっと早く、坂を転げるように加速度的に進むのかもしれません。熱帯雨林の急速な減少や砂漠化は、青く輝く美しい惑星、生命を育むユニークな星、私たちの地球が、いつまでもそうではないことの警鐘です。

地球の生命力と美しさが驚くほどの微妙なバランスの中で保たれていることを、地球の科学は説き明かしてくれるようになりました。そのバランスを保つための復元力がひと度損なわれると、一定の傾向が一気に加速されることになるでしょう。地球規模での対策の、草の根的日常化の急務であることを思わされます。

「地球の滅び」が現実味を伴って人の口の端に上るようになるはるか以前に、イエス・キリストは「天地の滅び」について語っています。彼は「この天地は滅び去る」と断言します。「国敗れて山河あり」はいつまでも共感を持って受け入れられることはないのです。悠久の歴史を見守って来た山河でさえ、その姿を失う時が来るのです。

すべての望みは天地とともに滅び失せてしまうのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストは、ご自分のことばは天地が滅んでもなお滅びることがないと言われました。それは彼のことばが宇宙に属するものではなく、宇宙を超え、宇宙を貫く真理だからです。イエス・キリストこそ、この宇宙を生み出した方です。この方のことばにご自分の人生の土台を据える人はまことに賢明で、幸いな人です。

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あなたは尊い存在です

2007年02月

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、
また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

旧約聖書 伝道者の書 12章1節

あなたは「偶然の産物」ではありません。あなたの存在自体に意味と目的があるのです。なぜなら、あなたは神の大きなご計画と愛のうちに造られたものだからです。あなたが、かけがえのない存在である理由は、そこにあります。

この宇宙とその中にあるすべてのものは創造主なる神によって造られたと聖書は告げています(「初めに、神が天と地を創造した」創世記1章1節)。その神の創造の中心に私たち人間が置かれているのです。この宇宙は、人間に対する神の配慮に満ち満ちています。私たちは宇宙の中に、自然の中に、随所に、私たちへの神の愛と誠実を見出すことができます。

多くの人はそのような神の愛と配慮を認めません。すべては自然であり、偶然であって、感謝すべきものとは思わないのです(自然を神格化し、自然に感謝する人はいますが)。自分は神に造られ生かされていると認めなければ、自分や他の人の存在の尊さを実感しないでしょう。また自分なりに生きる目的を設定し意味づけを行いはしても、真の意味や目的を見出すことはないでしょう。人は自分自身の造り主と向き合うまでは、本当の自分を見出すことはできないのです。

若い日に自分を造られた神を知ることは幸いです。早ければ早いほど良いに決まっています。「もう何の楽しみもない」と嘆くようになる前にぜひ、あなたも、あなたの創造者を知ってください。けれども遅過ぎるということはありません。たとい臨終の床であっても、造り主なる神に立ち返るなら、あなたはその時、本来のあなたに立ち返ることができるのです。愛をもって神に造られたあなたに。

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大丈夫!望みはあります

2007年01月

神は言われます。
「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」
確かに、今は恵みの時、救いの日です。

新約聖書 コリント人への手紙 第二 6章2節

あなたは今、泥沼にはまり込んでいます。あなたがもがけばもがくほど深みに沈んで行きます。あなたは必死で手を伸ばし、文字通り手当たり次第に手に触れる物をつかもうとします。しかし、あなたの身を支えるだけの確かな拠り所が得られないまま、あなたは泥沼に沈み込んで行くのです。

「あーっ!」絶叫とともにあなたは夢から覚めました。「あー、夢で良かった。」こんな絶望的な夢、だれも見たくはないでしょう。まさに悪夢です。夢を見るなら希望に満ちた夢を見たいものです。あなたは今年、どんな夢を描いていますか。

夢は所詮夢、現実は夢など描いてはおられない、そう言われる方もおられるでしょう。それこそ、泥沼状態で必死に絶望と闘っている方もおられるかもしれません。わずかな可能性を信じて事態の好転のために力を振り絞って頑張っておられる方もいるでしょう。中には、まさに悪夢のような現実の中で、万策尽き力尽きて絶望に飲み込まれるばかりの方もおられるかもしれません。

しかし、どんな状況にあるにしても、この世に真の絶望はありません。「今月のことば」が宣言するように「確かに、今は恵みの時、今は救いの日」だからです。神の御国の扉は開いています。目に見えない神の御手がいつでも差し出され、泥沼に沈む者の手をしっかりとつかみ取り、泥沼から引き上げて、堅い巌の上に置いてくださるのです。

もしもあなたが絶望の淵におられるのなら、「恵みの時」「救いの日」と定められた「今」というこの時に、あなたの手を神に向かって差し伸ばしてみてください。

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知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
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