浦安聖約キリスト教会

神の贈り物

2008年12月

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

新約聖書 ヨハネの福音書 3章16節

街を美しく飾る光の列や、心浮き立つクリスマスソングがクリスマス気分を盛り上げています。しかしイエス・キリストのお生まれになった最初のクリスマスは、静かな星の輝きと、羊の夜番をする貧しい羊飼いたちの聞いた天使たちの聖なる歌声だけしかありませんでした。

ユダヤのベツレヘムでのメルヘンチックな出来事は、やがて人を変え世界を変えるリアリティーの始まりでした。そのいのちと希望に満ちたリアリティーに触れた者たちが、今年も世界の至る所でクリスマスを喜び祝います。

キリスト誕生の出来事は、私たちに少なくとも次の3つのことを告げています。
第一に、私たちを愛する神が、この世界にはおられるということです。イエス・キリストは私たちへの神の愛の贈り物です。キリストはことばと行いで神の愛を実践されました。その窮極に十字架があります。キリストは私たちの神への背きの罪を身代わりに負って十字架で神の刑罰を受けてくださいました。それによって私たちは神と和解することができるのです。

第二に、神が人となって歴史の中に入って来てくださり、ご自身を現わしくださったということです。目に見えない神が目に見える姿で人の中に身を置き、人として生きてくださいました。もはや神は観念的な存在でも単なる運命や得体の知れない超越的な力でもなく、呼べば答える人格的な関係を持つことのできるお方なのです。

第三に、この世界には真の絶望はないということです。愛の神がおられ、救いを求める者に答えてくださるからです。キリストと出会うクリスマスでありますように。

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まずは感謝を

2008年10月

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、
大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、
また何一つ持って出ることもできません。
衣食があればそれで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、
また人を滅びと破滅に投げ入れる、
愚かで有害な多くの欲に陥ります。
金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです。

新約聖書 テモテへの手紙第一 6章6~10節

食の安全を脅かす事件が次々と起きています。恥知らずの嘘やごまかしが横行し、信じる手がかりを失った社会には不安が募るばかりです。このような事態に至った背景が語られ、要因が指摘されますが、私はその根底に人の心を支配するマグマのようなどん欲があると思います。

いかに儲けるか。どのようにしたら効率よく儲けられるか。儲けばかりを追い求めているうちに、ついには不正や不法の領域にまで踏み込んでしまうことになったのでしょう。人はうまい話におびき寄せられ、乗ってしまいやすいのです。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで有害な多くの欲に陥り」やすいのです。まさに「金銭を愛することがあらゆる悪の根」だと言えるでしょう。

どん欲は満ち足りることを知りません。もっともっとと、いつまでも渇いています。ないものばかりに気を取られ、あるものを心に留めません。ないものを手に入れることに熱心で、あるものを感謝しようとはしません。ですからいつも不満です。私たちは手に入れたすべてのものを、やがて手放さなければなりません。実際「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできない」のです。

私たちに生を与えてくださった神は、私たちが生きて行くのに必要なすべてのものも備え、与えてくださいます。その方に拠り頼み、その方に感謝しながら歩むとき、心は満ち足り、あるものを人と分け合いたいと願うようになるのです。

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栄冠は君に輝くを

2008年09月

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が私のために
用意されているだけです。

新約聖書 テモテへの手紙第二 4章7~8節

北京オリンピックは多くの興奮と驚きを残して去って行きました。金メダルを目指して競い合うアスリートたちの懸命な姿は(テレビ観戦であっても)多くの人を魅了し、記憶に焼き付けました。彼らは力と技の向上のために日夜たゆまず努力を重ね、あらゆる犠牲を払い、過酷な練習にひたすら耐えて「この日」に備えたのです。

アテネに続いて見事2連覇を果した日本のアスリートたちの中には、アテネ後ひどい不調に陥り、「どん底」を経験して、なおそこから立ち上がって連覇を果したという人が何人かおりました。世界の頂点を極め、究極の達成感を味わった上で、再び頂点を目指すモチベーションを生み出すことの容易でないことを知らされました。

オリンピックの金メダルを目指すことは、やりがいのある輝かしい目標に違いありませんが、生涯の目標とはなりえません。私たちが一生の間、それを目指して心を燃やし、犠牲をいとわず懸命に追い求めるべき目標は別にあります。失せることのない達成感をもって地上の生涯を閉じることができる目標です。

パウロという、一世紀中葉に活躍したキリスト教の伝道者は、「今月のことば」にあるように、自分の地上の生涯の終わりが迫っていることを知りつつ、充実した達成感に心満たされながら、彼のために備えられた「義の栄冠」をかなたに望み見ることができました。

その栄冠は、彼が生涯の主と仰ぎ、全幅の信頼をもって従い通した救い主イエス・キリストご自身が「よくやった。忠実なしもべよ」とのおことばとともにお授けくださるものでした。この「義の栄冠」をあなたも目指してみませんか。

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すばらしい相談相手

2008年08月

ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は
「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

旧約聖書 イザヤ書 9章6節

「今月のことば」はクリスマスの季節によく引用される旧約聖書の一節です。イザヤという預言者が、やがて来るメシア(救い主)について述べていることばです。彼の預言は何百年も経ってイエス・キリストによって成就しました。

イザヤはやがて来るメシアにいろいろな呼び名を付けていますが、その筆頭に「不思議な助言者」とあります。手元の英訳聖書では「ワンダフル・カウンセラー」になっています。「すばらしい相談相手」とでも訳しましょうか。

イエス・キリストは実にすばらしい相談相手です。新約聖書の半分近くを占める福音書はイエス・キリストの公生涯を記録しています。福音書を読むと、決して長いとは言えない彼の公生涯の相当の部分を個人のために費やしていることがわかります。

いろいろな人がいろいろな問題をかかえてイエス・キリストのもとにやって来ます。そしてそれぞれがそれぞれの解決を得て帰って行くのです。重荷を下ろし、自由を得、渇きをいやされ、喜びに満たされて帰って行くのです。解決を得ずに帰って行く場合もありますが、それも実は真の解決のために必要な「宿題」を出しているのです。

だれも親身になって聞いてくれない。話してもわかってくれない。本心を話せる人がいない。本当に話したいことこそかえって話せない。話した結果ひどい目にあった。信頼して話したのに裏切られた。なかなか「すばらしい相談相手」に恵まれません。どうでしょう。一度、イエス・キリストのもとにいらっしゃいませんか。福音書の出来事は昔話ではありません。イエス・キリストは今も「すばらしい相談相手」です。

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神はそこにおられます

2008年06月

確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは神の中に生き、動き、また存在しているのです。

新約聖書 使徒の働き 17章27~28節

神なんか関係ない!あなたはそう思っておられるかもしれません。
古い映画ですが「十戒」を見た人は多いでしょう。聖書の出エジプト記に記されたモーセの生涯を映画化したものです。モーセは40歳の時、神との出会いを経験します。名前を聞かせてほしいと求めるモーセに、神は「わたしは『ある』という者だ」とお答えになります。人が認めようと認めまいと、現にそこにおられる方としてご自分を表されたのです。

「今月のことば」は使徒パウロという伝道者がアテネのアレオパゴスに立って当時の思想家や哲学者たちにイエス・キリストのことを伝えようとして語っている講演の一節です。その中で彼は「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません」と言い切っています。そればかりか「私たちは神の中に生き、動き、また存在している」とさえ言っています。

彼が語る神は、天地の創造者で、人の手で造られた宮などには収まりきれない大きな方でありながら、決して私たちから遠くかけ離れた存在ではないのです。私たちはそれと気づかずにいるかもしれませんが、実はきょうも生きて働き給う神の大きな御手の中で生かされているのです。

神は私たちのことを傍観してはおられません。かつてモーセを導き、彼にご自身を現し、彼を大いなる働きにお遣わしになった神は、今日、それと知らずに神のご支配の中にありながら神に背を向けて歩んで来た私たちにさえ、ひとたび心を開き、神を求めさえすれば、それに応えてご自身をお現しくださいます。

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永遠に変わらないことば

2008年05月

人はみな草のようで、
その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、
とこしえに変わることがない。・・・
あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

新約聖書 ペテロの手紙 第一 1章24~25節

色とりどりの花々が咲き誇り、木々が萌黄色に包まれる季節。家々の花壇や生垣、そして街路にも生命感が溢れ、自然界の躍動に触れて人の心も浮き立ちます。

「今月のことば」は、そんな季節のもたらす歓喜に水を差すようですが、草花の移ろいに人の命のはかなさを思う人は古来少なくありません。美しく咲き誇れば咲き誇るほど、しおれまた散っていく草花のいのちのはかなさを思います。
花々なら、ひとときでも人の目を楽しませてくれることでお役目ご苦労様と捨てられもしますが、人の生涯は同じようには行きません。一花咲かせて終わりにして良いはずがありません。とは言え、いつまでも命の輝きを放つ生涯などあるのでしょうか。

人が「とこしえに変わることのない神のことば」、「福音のことば」を受け入れるとき、その人は永遠のいのちに生かされ、神の永遠のご計画の中に位置づけられた尊い今を生きるようになります。人はみな、ひとときの地上の生涯を、永遠という枠組みの中で生きるように造られ、生かされているのです。限られたわずかな年月ではあっても、時代を超えた目的と価値に生きるようにと生かされているのです。

草花の盛衰に人のいのちのはかなさを重ねる知恵が意味を持つのは、人の生涯は決してそのようなものではないと気づかされる時です。「とこしえに変わらない神のことば」、「福音のことば」がある限り、私たちには望みがあります。永遠に生きる道があるのです。

イエス・キリストの福音を聞いて信じるとき、その人のうちに永遠のいのちが働き始め、朽ちない望みに生きる喜びを奏で始めることでしょう。

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恐れるな

2008年04月

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。
しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父の
お許しなしには地に落ちることはありません。・・・
だから恐れることはありません。あなたがたは、
たくさんの雀よりもすぐれた者です。

新約聖書 マタイの福音書10章29、31節

自分の存在価値に疑問を持ったことはありませんか。自分が生きていてどんな意味があるのだろうか。自分はいてもいなくてもどっちでも良い存在ではないだろうか。そんな思いが心にあると、何もする気がしなくなったり、生きていることさえ煩わしくなります。

自分の存在価値はどのように測られるのでしょうか。他の人との比較や競争によってでしょうか。社会に生きる限り、何らかの評価を受けることは当然あるでしょう。ほとんどの場合、評価は比べることによってなされます。良い評価が得られれば存在価値があると認められたと思い、評価が悪ければ存在価値が低い、ないしは存在価値がないと見られていると思いがちです。人の評価で自分の存在価値を判断してしまいやすいのです。

イエス・キリストは、当時の最小の通貨で売り買いされていた雀のことさえ、世界の創造主なる神は心に留めておられ、そのお許しなしに一羽とて地に落ちることはない。だとすれば「たくさんの雀よりすぐれたもの」として造られた人間である私たちのことを心にかけてくださらないわけがないではないか、と言われます。

私たちの存在価値は人の評価で決まるのではありません。神が一人一人をかけがえのない尊い存在として造り、生かしてくださっているのです。神から離れた状態での人間は互いの評価に一喜一憂し、振り回されがちですが、決して変わることのない神の愛の中に自分があることをわきまえる時、人は自分の本当の存在価値を見出し、深い安らぎを心に得るのです。

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死んで生きる

2008年03月

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、
それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

新約聖書 ヨハネの福音書 12章24節

私たちは生きています。生きていることを知っています。しかし、やがて死ぬことも知っています。いのちあるものはみないつかは死にます。私たちは限られたいのちを生きているのです。いのちから死への流れの中で。

「今月のことば」はイエス・キリストが十字架にかけられる数日前に語られたことばです。ここにはいのちから死への流れとは逆の、死からいのちへの流れが示されています。死んで生きる。逆説的ですが、真理です。

一粒の麦が一粒の麦としての姿にこだわり、そのままであり続けようとするなら、まさに「それは一つのままです。」しかし、もし一粒の麦としての姿に囚われず、地に播かれ、己が姿を失うなら、三十倍、六十倍、百倍、いやそれ以上の「豊かな実を結ぶ」ことになるのです。ここに死からいのちへの道があります。

あなたが自分にこだわり、自分に囚われ、「自分、自分」の日々を送る限り、やがては死というピリオドで人生を締めくくって終わるのです。しかし、もしあなたが自分にこだわる生き方をやめ、あなたの主である神を認め、神に従う道を歩むなら、あなたの生涯は豊かな実を結ぶことになります。

そのような自分に死ぬ生き方は愚かで空しいもののように思われることでしょう。しかし、そのような、まさに死を意味するような生き方によって、私たちはかえって死で終わることのないいのちの道を歩むことになるのです。イエス・キリストは父なる神の御心に全く服し、一粒の麦として十字架に死なれました。その結果、誰よりもユニークな生涯を送られ、よみがえられて今も生き、豊かに実を結んでおられます。

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新しい事の始まり

2008年02月

見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。

旧約聖書 イザヤ書 43章19節

新年の一念発起も試練の時を迎える時期になりました。新品もたちまち中古品となるように、すべては時の流れに押し流されて「いつものこと」になって行きます。だからこそ、かえって新しい事への期待とあこがれが心の底に募るのかもしれません。

「今月のことば」は預言者イザヤによって語られた、神の民イスラエルへの力強いメッセージです。強大な諸帝国に翻弄され、脅かされて、自らのアイデンティティーさえも失いかけている民に、起死回生の望みを与えるメッセージです。神ご自身による「救い」の約束の宣言です。

ここで言う新しさは単なる時代の行き巡りではない新しい時代の実現を意味しています。約束されていた「救い」が実現する時が、間近に迫っているというのです。それは「救い主」の到来を意味することでもありました。

実は、イエス・キリストの到来とともに、イザヤの預言は成就したのです。しかし、イスラエルはイエスを「救い主/キリスト」とは認めず、十字架にかけて拒みました。しかしイエス・キリストを「救い主」と信じた人々には「新しい事」が始まります。イエス・キリストの十字架によって私たちは神と和解し、神のもとへ帰ることができるからです。

神との平和を得、神の愛と恵みの中に入れられる時、私たちはそれまで経験したことのない新しい生涯を歩み始めます。それはやがて古びて、またしても新しさを求めなければならないようなものではありません。その人は日々新しくされて行きます。人生の真の意味と目的を知り、神の力に生かされつつ、栄光のゴールを目指して歩むのです。イザヤのメッセージはあなたへのメッセージでもあります。

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不安の時代を平安に生きる

2008年01月

あなたのみことばは、私の足のともしび、
私の道の光です。

旧約聖書 詩篇119篇105節

中国から輸入された冷凍食品の中に殺虫剤が混入していたことがわかり、私たちの日常生活の不安の種がまた一つ増えました。何が起こるかわからない予測不能な社会、次は私かも、わが子かも、我が家かも、という漠然とした不安が漂う時代です。先を知りたい、確かな拠り所を得たいという欲求が高まるのも当然のことでしょう。

しかし、誰にとっても明日は未知の世界です。ある程度は予測できても、実際どうなるかは誰にもわかりません。文字通り神のみぞ知る世界です。この基本的事実は、いつの時代も変わりません。複雑で変化の激しい今の時代は一段と予測しにくくなったとは言えるのでしょうが。

ずっと先まで見通せたらどんなに良いだろうかと思うのですが、考えてみると、仮にすべてを見通せても、私たちは全能ではありませんから、結局のところ、必要かつ十分な対策を日々講じることはできないでしょう。

「今月のことば」は今から3千年近くも前に書かれた詩の一節です。いろは歌のように書かれた長い長い詩は、その全篇を通して神のことばの確かさと麗しさ、蜂蜜よりも甘いと言わずにはおれないほどの慕わしさをことばの限りに書き連ねています。  

神のことばである聖書は、古くて新しい書です。決して古びない真理の書です。思想家や哲学者のための書物ではなく、日常の一歩一歩に確かな拠り所を求める人たちのための書物です。明日を知らない私たちが、不安の渦巻く時代のただ中を、確信と平安を持って歩んで行くための「足の灯」「道の光」なのです。
聖書に耳を傾けてみませんか。神のことばに照らされた歩みをしてみませんか。

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知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
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