浦安聖約キリスト教会

メリー・クリスマス

2009年12月

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。

旧約聖書 イザヤ書 43章4節

クリスマスは言うまでもなくイエス・キリストのご降誕を記念し、お祝いする日です。それは21世紀に生きる私たちにとって、しかもキリスト教国でもない日本に住む私たちにとって、どんな意味があるのでしょうか。

クリスマスは、私たちに向けて差し出された神の御手です。御手の中には生まれたばかりの男の子がいます。私たちと変わらない、人の子の姿をした神の御子イエスです。イエスの生涯こそは神の現実そのものです。イエスのうちに、見えない神の御姿が鮮やかに示されました。聖にして義なる神、そして何より、愛なる神の姿が。イエスの生涯を見つめる時、私たちは自分が大いなる神の臨在の中にあることに気付かされ、生きる意味と喜びを、日々の歩みの確かな足がかりを見出すのです。イエス・キリストこそ、人類の目の前に差し出された神の愛の贈り物です。

その神の贈り物には「今月のことば」にある愛のメッセージが添えられています。まるで恋人への愛の告白のようなことばで、神はご自身の愛を私たちに告げています。それは一時の感情の高まりでしかないような、移ろいやすい愛とは違います。永遠に変わらない、無条件の愛。あの十字架の苦しみと死をもって私たちの「罪」の償いを成し遂げてくださったことの中に証しされた愛なのです。

クリスマスは、愛をもって私たちを招く神の声です。あなたの心の耳に、その神の招きの声が届きますように。その声にあなたが答える時、キリストの降誕が世界の歴史を二分したように、あなたの生涯に新しい時代が始まるのです。神の愛の中で。

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実りの恵み

2009年11月

すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、
実りの季節を与え、食物と喜びとで、
あなたがたの心を満たしてくださったのです。

新約聖書 使徒の働き 14章17節

今月の23日は「勤労感謝の日」です。何をどう感謝したら良いのだろうかと思う人も少なくないでしょう。旧憲法下ではこの日、「新嘗祭」が行われていました。「天皇が新穀を天神地祇にすすめ、また、親しくこれを食する祭儀」と広辞苑にはあります。収穫を祝い、神々に感謝する祭儀なのでしょう。

私たち現代人の多くは「収穫の感謝」を忘れているように思います。農業に携わる方々は別として、大半の人はその機会を失っているのです。市場で収穫物を、それもほとんど季節感なしに手に入れているからです。食卓に並ぶ収穫物を前に、どれほどの人が心からの喜びをもって感謝をささげているでしょうか。

ある方々は庭に菜園を持ち、季節ごとに収穫の喜びを味わっておられることでしょう。山菜やきのこ採りに行って収穫を楽しむ人もおられるでしょう。農家のご苦労は別にして、収穫の喜びという点では相通じるものがあるように思います。

大地が産する収穫を人は「自然の恵み」、「大地の恵み」と呼びます。そこには自然への、あるいは大地への敬い、感謝というものが感じ取れます。私たちのいのちの養いに不可欠な食物への感謝は自然ですし、当然でもありましょうが、その感謝を大地に向け、自然に向けるだけでよいのでしょうか。

上掲の「今月のことば」は、大地の収穫の背後に、私たち人間に対する神の恵み、神の計らいがあることを告げています。天地の主なる神は、私たちの「必要」を顧み、いのちを養ってくださるばかりか、「喜びで心を満たしてくださる」お方です。

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教会堂物語

2009年10月

主はモーセに仰せられた。
「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。
イスラエル人に前進するように言え。」

旧約聖書 出エジプト記 14章15節

私が妻と小学生の子供二人とともに浦安に越して来たのは1987年のことです。当初は富岡地区の賃貸マンションや一戸建の借家を転々としながら伝道していましたが、1997年には諸般の事情から自前の会堂を得なければならない事態に直面しました。当時はバブル経済崩壊後で、地価は下落していましたが、それでも会堂に使えそうな中古住宅は6千万円(坪約100万円)以下ではありませんでした。まだ教会員もわずかで、手元の資金も30万円程度しかなく、私たちにはどうにもならないように思えましたが、神に望みを置いて祈っておりました。

その年の晩秋のある朝、聖書を読んでいますと、上掲のことばが心に強く響きました。このことばはイスラエルの民をエジプトから救出しようとするモーセに神が語られたことばです。エジプト軍が追い迫る中で、神は眼前の海を開いて彼らを助けました。映画「十戒」でよく知られた場面です。私には今こそ会堂取得に立ち上がるようにとの神の指示と思われましたので、とにかく神を信じて一歩踏み出すことにしました。年明けの総会で教会を挙げて取り組むことが決議され、4月には「会堂委員会」の初会合が持たれましたが、実際のところ、何の見通しも手がかりもなかったのです。

しかし神はその直後から私たちの思いを超えて事を起こされ、次々と事をお進めくださって、その年の11月30日には2階建中古住宅付きの土地53坪を6千400万円で購入する契約を結ばせてくださったのです。上掲の聖書のことばをいただいてちょうど一年後のことでした。神はまことに真実なお方です。ハレルヤ!

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平安を与える計画

2009年09月

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

旧約聖書 エレミヤ書 29章11節

29歳の時、神の導きを確信し、岡山県の、まだ始まって間もない小さな教会に赴任を決意した途端、どうしたことか、もともと0.1以下だった右目(左目は失明)の視力が急に低下したのです。あわてた私はなぜかメガネ屋に飛び込んだのですが、幸い、そこで紹介された眼科医から順天堂(水道橋)の「名医」を紹介されました。その「名医」は角膜移植手術を勧め、「今より良くなる確立は75%」とのことでしたが、失敗すれば全盲も覚悟しなければなりません。なかなか決断できずにおりました。ある朝、その日の聖書通読個所を読んでいると、上記のことばに出会ったのです。私の心は瞬時に定まりました。手術は必ず成功すると確信できたからです。

手術日は意外に早く1ヶ月後にやって来ました。結果はもちろん成功で、初めは0.6程度でしたが、それでも順天堂病院の高層階からビル群を眺めては感動していました。そのような景色をそれまで見ることができなかったからです。

手術から4ヶ月後、新婚4日目に岡山県に赴任しました。当初は自転車で走り回りましたが、田舎はとにかく車社会で、車がないと何かと不便です。思い切って教習所に問い合わせると、片目でも視力が0.7、視野が150度以上あれば大丈夫とのこと。検査の結果、視力はピッタリ0.7、視野が153度とわかった時、私は悟ったのです。なぜ岡山行きを決心した途端、視力が急に低下したのかを。その時は、なぜ、どうして、と戸惑うばかりでしたが、神は聖書のことばを通して、平安と確信を与え、ついにはそのトラブル自体を用いて必要な備えをさせてくださったのです。

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絶望の淵から

2009年07月

「主はすべてのものにいつくしみ深く、
そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」
「主は倒れる者をみなささえ、
かがんでいる者をみな起こされます。」

旧約聖書 詩篇145篇9、14節

私は27歳で、都内の比較的大きな教会の牧師として、主任牧師のもとで働きを始めました。主任牧師から、神の導きに従って自主的に活動するようにとの願ってもない指導をいただいて、希望に溢れて活動を開始したのですが、2年目も後半に入った頃でしょうか、自分なりの構想とやり方で進めて来た働きが、いろいろな面で行き詰まり、自分の未熟さ、無力さばかりが意識されるようになって、何とかしなければというあせりは、やがてどうしようもない絶望感と自己憐憫に変わって行きました。主任牧師に対しても不信感を抱くようになり、ますます孤立して行きました。

そんなある日、疲れきった心で聖書を読んでいた私の心に、上掲のことばが染み入って来たのです。神のいつくしみやあわれみが「すべての者の上にある」のなら、私の上にもあるはずだ。「倒れる者をみな支え」「かがんでいる者をみな起こされる」神は、私をも支え、起こされるに違いない。そのような考えが心に浮かび、私を捉えました。すると不思議なことに、それまでうなだれ、うずくまっていた私の心がたちまち力を得、しゃんと背を伸ばし、祈り始めたのです。「神様。私を助けてください。こんな私でも用いていただける場所があるなら、私をお遣わしください。」

その祈りから数日後に、岡山県で伝道している教団から、働きを始めて間もない田園の小さな教会の牧師としてお招きをいただきました。思い描くことさえできない、全くの無縁の地でしたが、そここそ私のために神が備えてくださった場所だという確信を得て、赴任を決意しました。神は苦しみを通して私を良い地へ導かれたのです。

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心配無用

2009年06月

だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。

新約聖書 マタイの福音書 6章34節

私が毎週日曜日にキリスト教会に通うようになったのは、高校2年の時でした。その頃の私は将来に対する不安と恐れのために暗い心で日々を過ごしていました。幼少時に悪性のはしかにかかり、一命は取り留めましたが、左眼の視力を失い、右目も0.1以下の弱視状態となりました。中学生になってからは、いじめられることもなく、目が悪いことをそれほど気にせずにいましたが、高校生になって分別が進み、将来を考えるようになると、自分は果たしてやって行けるのだろうかという不安と恐れが次第に心を占めるようになって行ったのです。

私が通うようになったキリスト教会には、若者たちが大勢いて、明るく活気があり、心の安まる温かさがありました。半年も通ううちに、その源が何かがわかって来ました。目には見えなくても一人一人を知っておられ、愛していてくださる神がおられるという信仰です。やがて私もそのような神がおられることを聖書を通して教えられ、信じるようになって、将来への不安と恐れから解放されました。「明日」はただ時間の経過の中でやって来るのではなく、愛をもって「明日」を用意し、「明日」をお与えくださる方がおられるのだとわかったからです。40年以上も前のことです。

イエス・キリストを信じて以来、将来への不安と恐れからずっと守られて来ました。
お財布にお金がなかった時も(もちろん銀行にも)、心には平安がありました。神は真実なお方です。どんな時にもともにいて守ってくださいます。不安をかき立てられるような時代にあっても「明日」を支配する方に拠り頼んで生きるなら安心です。

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知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
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