浦安聖約キリスト教会

メリー・クリスマス

2010年12月

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。

ルカの福音書2章11節

今月の聖書のことばはイエス・キリストの誕生を告げる天の御使いのメッセージです。
このメッセージは、その日、エルサレムに近いベツレヘムという小さな村で、「野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」名もない羊飼いたちに告げられました(ルカの福音書2章8節)。そのような人たちが、この歴史的な大事件を告げるメッセージの受け手であったということに驚きますが、神は彼らを選ばれたのです。

今から2010年前の「きょう」という日(実際は歴史家の数え間違えで数年の誤差が生じています。また、12月25日と特定できる手がかりは聖書にありません)に救い主はお生まれになりました。その日に始まるキリストの生涯が神話やただの「お話」ではなく、歴史的な出来事であることを示しています。聖書の福音書にその記録があります。

「ダビデの町」とはダビデの出身地ベツレヘムを差します。ダビデはキリスト誕生の約千年前にこの地で生まれたイスラエル王国史に輝く善王でした。キリスト(メシア。救い主を意味する称号)はそのダビデの家系から、しかもベツレヘムで生まれると預言されていました。千年の歴史を経て、かつてのイスラエル王国はとうの昔に滅亡し、今やローマ帝国の支配の下に虐げられている現実の中で、キリスト誕生のメッセージは告げられたのです。歴史を貫く神の力と真実が示されています。

イエス・キリストは「あなたがたのために」生まれたと告げられています。それは当時の人たちばかりではなく、私たちを含めた世界中の人々のために用意された神のご計画の具体化を意味しています。個々の問題の解決のためであるよりは、それらの問題をもたらしている根本的な問題の解決のためにキリストは来られたのです。

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天の声

2010年11月

地の果てのすべての者よ。
わたしを仰ぎ見て救われよ。
わたしが神である。他にはいない。

イザヤ書45章22節

今月の聖書のことばは、預言者イザヤを通して人に語りかける神のことばです。神は「地の果てのすべての者」に呼びかけています。すべての人の神だからです。神はすべての人を知っておられ、ひとりひとりに関心を持ち、「わたしを仰ぎ見て救われよ」と呼びかけるのです。

人は神を仰ぎ見ることによって救われます。多くの人は世の中を見、周りの人を見、目の前の問題を見ますが、神を仰ぎ見ることをしません。すべての上に、神がおられることを知らないのです。しかし、神は天からあなたを見ておられ、あなたを知っておられ、あなたの悩みも苦しみもわかっておられて、あなたに呼びかけているのです。「わたしを仰ぎ見て救われよ」と。世の中を見ているその目を、周りの人を見ているその目を、自分の目の前の問題ばかり見ているその目を、上に向け、神を仰ぐなら、あなたは救われるのです。

多くの人は神を知りません。神に気づかずに、あるいは、気づいていても気にも留めずに生きています。あがめることも、感謝することもしないのです。しかし、神を仰ぎ見るとき、人は救われるのです。
神はすべての人を愛しておられます。愛するゆえに、きょうも呼びかけるのです。「わたしを仰ぎ見て救われよ」と。神はあなたの応答を待っておられます。あなたが神を仰ぎ見るときを待っておられるのです。あなたが神を仰ぎ見るなら、あなたは神の愛の中を歩み始めます。神との交わりの中を歩む、新しい歩みが始まるのです。

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真実に生きる道

2010年10月

神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざを裁かれるからだ。

伝道者の書12章13,14節

偽証明書事件で被告とされていた村木さんの無罪が確定しました。多くの供述調書が信用できないとの理由で証拠として不採用となった結果です。検察が予断をもって描いたストーリーに合うように供述を誘導したと判定されました。菅谷さんが苦しめられた冤罪と同じ根から生じたものと言えます。捜査機関の取り調べの可視化を求める声が高まるのも当然です。捜査機関に対する不信感の高まりは深刻な問題です。

そのような中で、偽証明書事件を担当した大阪地検特捜部の検事が証拠品として押収したフロッピーディスクのデータを改ざんしたというニュースは世間を震撼させました。この件に関してコメントを求められた村木氏が口にされた「恐ろしい」の一言は、ある日突然に逮捕され、罪人に仕立て上げられかけた人ならではの重みを感じさせるものでしたが、私たちも同感です。まさうに「恐ろしい」の一言です。
この事件は、正義をかざし、悪に立ち向かうべき検察が、証拠を改ざんしてまで人を罪に陥れようとする不義不正を働くことがあるという現実を垣間見せてくれました。一検事個人を越えた検察組織のあり方や体質の問題として実態の徹底解明が求められる所ですが、勤務の評価や評判、自分の面子を守ろうとして、人を悪く言う、うそを流す、真実を伝えない、というようなことは、日常、身の回りで大小様々に起きていることではないでしょうか。時には自分自身が張本人になりかねません。

聖書はすべてを知る神がおられ、すべての真実を明るみに出し、正しい裁きを執行なさる時が来ることを告げています。神を恐れて生きる。目に見えない神を見上げながら生きることこそ、自己保身に走りがちな自分を真実に踏みとどまらせる力です。

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神のマニフェスト

2010年09月

(アブラハム)は、神には約束したことを成就する力があることをかたく信じました。

ローマ人への手紙4章21節

党のマニフェストを掲げて選挙戦に臨んだ鳩山氏率いる民主党に、国民の多数が、明日の日本のリーダーとしての期待を込めて信任の票を投じたのは昨年の今頃だった。あの頃の熱気は今はない。政治への不信、白けといら立ちが巷(ちまた)に漂っている。
当初は予算の財源のことでも、普天間基地の移転のことでも、何か決定的な妙案があって、ついには見事な解決策が示されるに違いないと思うほど、鳩山氏の言葉は力強かった。しかし結果は、粘り強い期待も空しく、裏切られたという思いを拭えない。失望の大きさは期待の大きさに比例する。力強く発せられた(ように思われた)言葉は、元々空虚だったのだろうか。ただ見通しが甘かっただけなのか。認識不足?情報不足?決断力あるいは実行力の欠如?それとも優先順位の変更か?

ある種のアマチュアっぽさが好感を呼んだとしても、素人であって良いはずはない。むしろ、良い意味でのプロ集団であってほしい。マニフェストを掲げるのであれば、風雨に耐え、しっかりした基礎と構造を持った耐震マニフェストであってほしい。
確かに、情勢は変化する。時には予測不可能なことも。経験不足による誤算も認識不足も、ある程度は許容できる。しかし、見栄や見せかけ、不実は困る。結局、党利党略、私利私欲に帰するのなら不信は癒しがたい。

聖書は神のマニフェストである。世界を救い、ひとり一人を救う遠大な計画と約束が記されている。上掲の聖書のことばにあるアブラハムは、神の約束を信じて新たな人生に船出した。彼は「神には約束したことを成就する力があると堅く信じ」たので、神の約束は彼の上に、また彼を通して実現した。神は信頼に値する方である。

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父のもとへ

2010年08月

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。

ルカの福音書15章20節

ルカの福音書15章の「放蕩息子」のたとえ話はよく知られています。レンブラントの名画「放蕩息子の帰宅」をご覧になった方も多いでしょう。

息子は父に相続財産を要求し、受け取ると、さっさと遠い国に旅立ってしまいました。快楽を追い求めて湯水のように財産を使い、ついには何もかも使い果たしてしまいました。折しも大飢きんがその地方を襲い、彼は食べることにも窮し、豚飼いをしながら、豚の餌さえ食べたいと思うほどに、みじめな状態に陥ってしまいました。

彼は父の家の豊かさを思い起こし、ついに決心して立ち上がり、「自分の父のもとに行ったのです。」息子としてはではなく雇い人にでもしてもらおうとの考えでした。すると、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」のです。自分の罪を認め、もはや息子と呼ばれる資格はないと告白する息子を父は赦し、彼の帰還を喜び、息子としての祝福の中に迎え入れたのです。

このたとえ話でイエス・キリストは何を教えようとしているのでしょうか。父のもとを離れた息子はすべてを失いました。しかし父のもとに帰った時に、すべてを回復したのです。この「父」は神を表します。神の愛は、人の思いをはるかに超えるほど大きなものです。身勝手と不遜、そむきと冒涜、あらゆる罪を赦して、平安と祝福の中に迎え入れてくださる完全な愛。神は今もそのような大いなる愛をもって、ご自身のもとに立ち返る者をしっかりと抱きとめ、受け入れてくださいます。

あなたも今「立ち上がって、自分の父(神)のもとに」いらっしゃいませんか。

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あなたを導く神

2010年06月

わたしはあなたに悟りを与え、
行くべき道を教えよう。
わたしはあなたに目を留めて、
助言を与えよう。

旧約聖書 詩篇32篇8節

神社のおみくじが売れ、運勢占いが流行ります。遊び心の人はともかく、本気の人には、出た結果は気になるはずです。気分を左右されたり、その日の計画や行動まで影響されたりするのです。一日ルンルンで過ごす人がいるかと思えば、逆に、予定していた外出を取りやめて、自室にこもる人もいます。

人は先行きどうなるのか気がかりです。良い未来が待っているのか、そうでないのか不安です。自分のことであっても、自分を越えた何かの力に左右されていると感じている人もいます。その何かの力を運命とか運勢と考えたり、神々や霊の力が働いていると考える人もいます。それが何かわからないので不安だという人もいます。おみくじや占いを利用するのは、不確実さの中にも何かしら拠り所を見出したいという思いから出ていることなのでしょう。

聖書は目に見えない神の、人への語りかけの書です。人はたまたま生まれて来たのではなく、神の大きなご計画の中で、ひとりひとり造られ、生かされているのだと聖書は告げています。ですから、その神を知り、その神と正しい関係を持つことによって、人は自分の生きる道を悟り、生きる拠り所を見出すことになります。

神は私たちひとりひとりと個人的な関係を持ってくださいます。あなたに目を留め、助言を与えてくださると約束しておられます。あなたが、もし望むなら、すべてを支配し、すべてをご存じの真の神が、あなたを正しい道に導いてくださいます。たとい恐る恐るでも、半信半疑でさえあっても、心を神に向けて近づくなら、あなたは聖書を通して今も語る神の御声を聞くことでしょう。

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心の渇きをいやす水

2010年05月

しかし、わたしの与える水を飲む者はだれでも、
決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、
その人のうちで泉となり、
永遠のいのちへの水が湧き出ます。

ヨハネの福音書4章14節

朝夕は女たちのおしゃべりと弾けるような笑い声でにぎわう井戸端も、お昼時の今は、もの静かです。人目を避けるようにして水汲みに来た一人の女は、井戸端に腰をおろす男の姿に歩を止めます。どうやら自分たちサマリヤ人とはつきあいをしないユダヤ人のようです。戸惑う女に男は声をかけて来ました。
対話が始まります。
「水を飲ませてください。」
「ユダヤ人のあんたが、どうしてサマリヤ人の私に水をくれっていうの?」
「もしあなたが神のくださるものがどんなもので、私が誰かわかっていたら、あなたの方こそ私に求め、あなたは生ける水をもらえたでしょうに。」
「あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのに、どこからその生ける水を手に入れるのですか。」

「この水は飲んでもまた渇きます。しかし、わたしの与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
二度と渇かない、水汲みの面倒もない便利な水を女が求めると、唐突なことばが返って来ました。
「夫をここに連れて来なさい。」
「夫はいません。」
「そのとおり!あなたには夫が5人あったが、今あなたと一緒にいるのはあなたの夫ではないですから。」
この一言に女は仰天します。
「あなたは預言者だと思います。」
対話は一気に転換し、礼拝場所や、真の礼拝と礼拝者について語られます。ついて行けなくなった女は言います。
「キリストと呼ばれる救い主が来たら、すべてのことをわからせてくださるでしょう。」
「あなたと話しているこの私がそれです。」
女は驚き、水瓶をその場において町へ行き、「私のしたこと全部を私に言った人がいます!キリストなのでしょうか」と宣伝したのです。我を忘れてキリストを指差す姿は躍動し、人目を避けて孤独に生きる先程までの女とは別人のようでした。
彼女は生ける水を飲んだのです。

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良いものをくださる神

2010年04月

求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。

新約聖書 マタイの福音書7章7節

岡山市に近い田園の町の、始まったばかりの教会に牧師として赴任して間もない、30代前半の頃のことです。一人の年配の婦人が礼拝に来られるようになりました。何か強い思いに動かされて来られていることは、その眼差しから読み取れましたが、礼拝後はすぐに帰宅なさるので、ことばをかける機会もなく日が過ぎて行きました。3か月ほどたったある日、その方が初めて私のもとに来られ、ご自分の物語を語られた後、洗礼を受けたいと申し出られたのです。

二人目の娘さんの嫁ぐ日が近づくにつれ、婦人の心は重苦しさを募らせて行きました。夫と二人だけで過ごす日々を思うと耐えられなかったです。夫の浮気を知って以来、心穏やかに彼を見ることができず、女性関係が切れても夫への非難の言葉は止むことなく口を衝いて出て来るのです。そんな自分がいやで何とかしようと、あちこちの神社にお参りしてもどうにもならず、苦しむうちに、それまで存在を心に留めることのなかった近所の教会が突如として意識に上り、行こうという思いがにわかに湧き起こって、初めてキリスト教の集会にやって来たのです。

最初の礼拝で語られたのが「今月のことば」でした。強い印象を受けた婦人は、帰宅後直ちに自分なりの仕方で穏やかな心を求めて神に祈ったのです。その時、思いがけないことが起きました。それまで夫の汚れと醜くさばかりを指摘して、非難のことばを浴びせて来た自分こそ、実は心の汚れた醜い存在だということに気づかされ、神の前に心を低くし、助けを求めたのです。その晩、帰宅した夫を迎えた自分の口から非難ではなく、ねぎらいの言葉が出たことに驚いたのは婦人自身だったのです。

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新しい人

2010年03月

だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、
見よ、すべてが新しくなりました。

新約聖書 コリント人への手紙第二 5章17節

30数年たった今も、イースター(復活祭)が近づくと決まって思い出すのです。女子大の学園祭で聖書研究会の学生に誘われたという初老の紳士が、教会に集うようになりました。礼拝で話を聞いても、よくわからない。聖書を読んでも、もう一つピンと来ない。女子大生お勧めの「キリスト伝」(ゼームズ・ストーカー著)も、どこか腑に落ちないまま、受難と復活の「最後」の章もあと数頁。結局、自分にはキリスト教はわからないものとあきらめかけた時、思いもかけない転機が彼に訪れたのです。

そこには、こうありました。「しかし、彼ら(十二弟子)の証言は彼(キリスト)の復活の証明にはならない。動かすことのできない証拠は、変化そのものである。――突然、彼らが勇気と希望、信仰と知恵を得、世界の未来に関して、高い正しい理解を持つようになり、教会を創設し、世界の人を回心させ、キリスト教を人々の中に純粋な姿でうち建てるのに十分な力を得たというこの事実である。」

その件(くだり)を読んだ時、彼は突如、わかった!のです。「キリストはまさしく復活した!」彼のたましいがそう叫んだ瞬間、それまでよくわからなかったことがすべて理解できるようになったのです。まるで彼自身が復活したかのように彼は変わりました。聖書が楽しくなり、読みふけりました。教会の集会が喜びとなり、全部の集会に出るようになりました。そう!婦人会にまで。聖書を知らずに空しく過ごした日々を取り戻そうとするかのように。

気づくと、彼は自分が超ヘビースモーカーだったことを忘れていました。たびたび「トラバコ」(路上で酔いつぶれた人を収容する施設)のお世話になる、息子泣かせの大酒飲みだったことを忘れていました。彼は全く新しい人に変えられたのです!

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仰ぎ見て救われよ

2010年02月

地の果てのすべての者よ。
わたしを仰ぎ見て救われよ。
わたしが神である。ほかにはいない。

旧約聖書 イザヤ書 45章22節

私が30代で岡山市に近い農村の教会の牧師をしていた時のことです。一人の女子高生が教会を訪ねて来ました。キリスト教は初めてのようでしたが、思い切って来られたのでしょう。細い澄んだ声で一言一言しっかりと来訪の意を告げられました。

自分は「悪い子」で、毎日生きて行くことが苦しい。自分でどうすることもできず悩むうち、通学の途中で、田んぼのかなたに見える教会の十字架がふと目についた。あの十字架のもとに行けば何か解決があるのではないか。そのような思いが心に湧き、強くなったので、きょうは思い切ってやって来た。そのようなお話でした。

私は聖書から神について、救いについてお話し、イエス・キリストには解決があることを告げました。女子高生は苦しみの深みにあって、希望を見出したのでしょう。その場でイエス・キリストに対する信仰を言い表したのです。その時から彼女は平安を得、希望と喜びを持って歩み始めました。

後日わかったことですが、当時、彼女はほとんど食事が摂れず、ぎりぎりまでやせ細って、命の危険さえ考えられる状況だったのだそうです。もともとなぜかキリスト教嫌いで、教会などには全く関心がなかったとのことでした。そんな彼女であっても、ひとたび神を仰ぎ見るとき、神はそれに応えて、救ってくださったのです。

「地の果てのすべての者よ」と呼びかける生けるまことの神の招きに、もれる人は一人もいません。あなたが神を仰ぎ見るとき、あなたは救われるのです。平安と喜びと希望のある新しい歩みを始めることができるのです。

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知恵の泉

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。 旧約聖書 詩篇 119篇66節
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